昨日の記事で取り上げた万葉歌について、岩波文庫の新版『万葉集』(全五巻、2013~2015年)の当該歌の注(第三巻、2014年)には、「人に触れたものに触れることによって間接的にその人に触れたいと願うこと」を歌った他例として、巻第十二の「寄物陳思」歌の一首二八五八が挙げられている。
妹に恋ひ 寝ねぬ朝に 吹く風は 妹にし触れば 我にも触れこそ
〔妻に恋い焦がれて眠れなかった夜明けに吹く風よ、妻に触れたら私にも触れてくれ。〕
結句は原文「吾与經」、諸訓あり。しかし、今、それは措く。この「妹」は妻とは限らないだろう。伊藤博『萬葉集釋注六』(集英社文庫版、電子書籍版、2013年)の訳は、「風に寄せる恋」と題され、次のようになっている。
〔あの子に恋い焦がれて眠れないこの朝方に吹いてくる風よ、お前は、あの子に触れてきたのなら、この私にも触れておくれ。〕
この歌にも類想歌があり、夙に契沖『万葉代匠記』において比較されている。その類歌は、巻第十・二三二〇。併せて伊藤訳を掲げる。
我が袖に 降りつる雪も 流れ行きて 妹が手本に い行き触れぬか
〔私の着物の袖に今降りかかった雪でも、ずっと空を流れて行って、あの子の手首に触れてくれないものか。〕
注して云う。「美しい幻想である。いとしい人とは何事もともにしたいという愛情がみなぎる。」『万葉代匠記』には、「雪はかなたへゆきて妹にふれよといひ、風はこなたへ来て我にふれよと、おなし心なり」とある。
両歌併せ誦むことで、「雪はかなたへ」「風はこなたへ」行き交う美しい交感の景が、今、ここに、立ち現れる。