二十歳前後の頃、小林秀雄にイカれていた。文庫で手に入る著作はすべて購入し、片っ端から読んだ。当時新潮社から刊行中だった軽装版全集も買ったし、『本居宣長』は単行本を買って読んだ。
その頃書いた文章はもう何も残っていないが、おそらく重症の「小林かぶれ」で読むに耐えない赤面ものであろう。
今はもう小林秀雄は読まない。というか、読む気になれない。多分、もう読み返すことはないだろう、と思う。
今日ネットで購入した竹内整一著『日本思想の言葉 神、人、命、魂』(角川選書、2016年、電子 書籍版)の「はしがき」を読んでいたら、『本居宣長』からの引用が出てきた。それに即して竹内が言っていることには共感する。
古い言葉をじっくり読み味わうということは、単に「古」に戻り懐かしむということではない。小林が同書で、「自己を過去に投入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となつてゐた」と書いたように、それはかならずや、何ほどかは今ある自分を「あらためる」いとなみである。
「あらためる」とは、つねに「古」を「検(あらた)める」ことにおいて「新」へと「改める」といういとなみなのである。
浅学菲才を顧みずに敢えて言えば、私の古典の読み方もこの意味で「あらためる」ことでありたいと思う。