内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

歴史の体温を感じること ― 歴史小説を読む愉しみの一つ

2017-12-19 20:18:53 | 読游摘録

 歴史の教科書ではせいぜいその名が養老律令発布や『日本書記』編纂時の天皇として言及されるだけの元正天皇を主役とした永井路子の『美貌の女帝』を読みながら、以下のようなことを考えた。
 どんなに当時の資料を博捜してそれらに忠実に依拠し、舞台となった場所を実際に訪れて現地調査を入念に行い、さらには、その時代の現代における専門家たちの最新の研究成果を十二分に踏まえて書かれたとしても、歴史小説の中の記述を事実として鵜呑みにするわけにはいかないのは言うまでもない。
 しかし、他方、厳密な学問的考証に基づいた記述こそが当時の事実に即しているという主張も別の意味でそのまま肯うわけにはいかない。歴史記述は、それがたとえ確実な資料に基づいていたとしても、歴史の再構成(あるいは、大森荘蔵風に「制作」と言ってもよい)であって、歴史の中の事実そのままの「写し」ではありえないからである。むしろ、そのような事実そのままはそもそも存在しないと考えなくてはならない。
 歴史を記述するということ、あるいはそれを語るということは、取りも直さず、歴史の中には語り得ぬものがそれこそ無数にあるということを示すことである。記述し続ければ、あるいは語り続ければ、いつかはすべてが語られるということはありえない。
 歴史小説を読む愉しみの一つは、歴史において語り得ず、当時の人びとによって生きられるしかなかったこと、または、感じられるしかなかったこと、あるいは、当時の誰によってもけっしてそれとして認識されることがなかった現実、それらへの想像力を刺激してくれることにあると私は考える。
 歴史小説の中のある記述が、歴史家から見れば論証不能な空想的なものであったとしても、そこに私たちは歴史の体温のようなものを感じることがある。
 例えば、ある人物を前にして、当時の人たちは必ずや何かを感じたはずである。その人物が傑出していればなおのことである。その何かを感じたという事実があったことをある生き生きとした仕方で伝えてくれる記述に歴史小説の中で出会うとき、読書の悦びを私は感じる。
 『美貌の女帝』の冒頭を引いておこう。

 誰が言いだしたのだろう。
「ひめみこの瞳はすみれ色だ」
 と。幼い日からの彼女の美貌を、人々はそんな言い方で噂しあった。細いうなじを心持ちかしげるようにして、少女が相手をみつめるとき、黒眸がちのその瞳の奥に、ふとすみれ色の翳がよぎるのだという。