内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

最後にして最新の学術書,あるいは伝統の継承ということ ― 村上勝三『知と存在の新体系』

2017-12-30 00:00:58 | 読游摘録

 先月刊行された『知と存在の新体系』(知泉書館)は,日本のデカルト研究の第一人者である村上勝三先生の「最後の学術書」である.
 ご本人が「あとがき」の第一行目にそう記されている.先生ご自身は沖縄で今も元気にお暮らしだ.十二月初め,この本をフランスに送ろうか,あるいは,年末年始帰国するなら,それに合わせて滞在先に送ろうか,とお問い合わせいただき,それならば,滞在先にお送りくださいとお願いしておいた.帰国した日にはすでに届いていた.
 一昨日昨日と摘録した『無辺光 片山幽雪聞書』では,伝統の継承に関わる箇所を引用した.期せずして,同じ言葉を村上先生のご本の「序 自我論的道程から宇宙論的見地へ」にも見出す.単なる偶然とは思えない.

 日の下に新たなことなしという点からするならば,本書の表題(『知と存在の新体系』)は傲慢に響くかもしれない.しかし,我々は日々の時の流れと場所の移動の下に時々刻々の新しさに晒されている.そのなかで現象としての刷新を重ねて行かなければ伝統の継承もない.「新体系」と銘打っても,根底はデカルト形而上学である.それをいま現に刷新しようとするとき,「デカルト主義」的であってもデカルト形而上学と同じであるわけではない形而上学を構築しなければならない.それが「新体系」の「新」の意味するところである.

 伝統の継承ということについて,能楽と哲学というまったく異った分野において発された言葉の間に起る共鳴に私は深く心を動かされる.いずれも,そこには,ほんとうに大切なことが澄んだ言葉で明晰に表現されている.
 その次の段落には,先生が新たに構築されようとする形而上学の要諦が選び抜かれた言葉で簡潔に表明されている.少し長いが段落全文を引く.一語でも省略してしまうと文意を損なってしまうからである.それほど緊密に構成された文章である.

 「神」という概念が哲学的思考から放逐されてすでに久しい.哲学にとって「神」という表現は欠かすことができないというわけではない.欠かすことができないのは,「神」ではなく,「我々」を超えた「我々」の一なる起源である.「神」なき時代である現代において,哲学に最も求められているのが相対主義の克服であるならば,我々が求めるべきはこの「一なる起源」である.「私」が既在であり,別個性を本質とする「個」として扱われるのならば,「私」を集積しても「私」の集塊にしかならなず共同性の根拠を問うことは徒労に終わる.すべての「私」の別個性(是性)と「人」としての共通本性とを,同じ根拠から理由をもって明らかにすることが相対主義克服への途である.そのためには伝統的な哲学的「神」概念を脱構築し,それを我々の知識の枠組みに据えなおし「この上ない高み」つまり「無限」に設定し直さなければならない.この「無限」は「無際限」ではない.「無際限」とは留まることのない進行のことである.通常言われる数学上の「無限」も「無限」宇宙もこの「無際限」に他ならない.「無際限」は「限りがない」ということを表現する概念である.それに対して,「無限」は,「それ」を設定しなければ,あらゆる進行が始まりも終わりもしない「それ」である.別の表現を求めれば,「無限」は「すべてのすべて」であり,「限定を欠いたすべて」,一切の条件を欠いた「すべて」である.それゆえに「無限」は善と真と存在が一つになる場として「一」である.この思考を理解するのは容易ではないかもしれない.

 確かに,この思考の高みに到達するためには,厳密な思考の訓練を忍耐強く繰り返さなければならないだろう.この本の中に凝縮された思考はそのような持続的な知的努力を読む者に要求するという意味で,けっしてやさしい本ではない.しかし,そのような努力に値する学術書であることも疑いない.それを私自身が実践することこそが先生のこれまでのご高誼に感謝することに他ならない.
 先生が「あとがき」の最後の段落に記された言葉―すでに『数学あるいは存在の重み デカルト研究2』(知泉書館,2005)の「あとがき」に記されていた言葉―には,先生のお人柄が集約されており,私はそれに感動せずにはいられない.

私が傷つけたすべての人に陳謝しながら,私を傷つけたすべての人に感謝したい.