人によく知られた文章が必ずしも名文とはかぎらない。仮にそれがいわゆる名文であったとしても、美しい文章であるとはかぎらない。美しくなくとも優れた文章ではあるという意味で、それは名文である、と言ってもよい。
もちろん、いわゆる美文など、ここでは論外である。そんな文章は、書いた者の小賢しさだけが取り柄であり、実は美しくさえない。
文章の美しさはそれを書いた者の心根の美しさだと言いたいのでもない。
ただ、虚心坦懐に読んだときに、端的に、これは美しい文章だ、と言いたい文章がある。
そんな文章の一つが三木清の「幼き者の為に」である。現代日本語で書かれたこれ以上に美しい文章を私は知らない。
三木は、一九三六年に喜美子夫人を失った。享年三十三歳である。その翌年、故人を記念するために、縁者や知友の追悼文および故人の和歌、書簡の類を集めて、『影なき影』と題された文集を三木は編んだ。その文集に寄せた自身の文章が「幼き者の為に」である。
七歳で遺された娘洋子のために書かれたこの文章は、岩波の全集版で二十頁ほどの文章である(第十九巻)。その文章は、こう始まる。
洋子よ、お前はまだこの文章が讀めないだらう。併しやがて、お前はきつとこれを讀んでくれるに違ひない。その時のために父は今この文章を書いておかうと思う。
この文章を読みながら、何度か涙が溢れるのを禁じ得なかったことを正直に告白しておく。
その最後の段落の全文を引用する。
彼女の一生は、短いと云へば短いと云へるし、また長いと云へば長いと云ふこともできるであらう。彼女の一生はまことに弛みのないものであつた。そして死んでゆく時には彼女は殆ど人間的完成に達してゐたと信じる。人々の心に自分の若い美しい像を最後として刻み付けてこの世を去つたのは彼女が神に特別に愛されてゐたからであらう。私としては心殘りも多いが、特に彼女の存命中に彼女に對して誇り得るやうな仕事の出來なかつたことは遺憾である。私が何か立派な著述をすることを願つて多くのものをそのために犠牲にして顧みなかつた彼女のために、私は今後私に殘された生涯において能ふ限りの仕事をしたいものだ。そしてそれを土産にして、待たせたね、と云つて、彼女の後を追ふことにしたいと思ふ。
こう書いた三木に残されていた人生はわずか八年であった。