オットー・ノイラート(1882-1945)による科学的知識のあり方についての船の喩えは、それがクワインの『ことばと対象』(1960)において引用されたことで一躍有名になり、「ノイラートの船」として、かなり強引な拡大解釈も伴いつつ、人口に膾炙するに至った(とまで言えば少し言い過ぎかもしれないが、広く知られるようになったことは事実)。
ノイラートの主旨を一言でまとめれば、私たちの知識の総体は、常にいわば航海中の船のようなものであって、下船して修復するわけにはいかず、航海を続けながら、部分的な修復を続けて行かなくてはならない、ということになる。
他方、我らが道元は、『正法眼蔵』「全機」において、人間の生を舟に喩えて、次のように述べている。
生といふは、たとへば、人のふねにのれるときのごとし。このふねは、われ帆をつかひ、われかぢをとれり。われさををさすといへども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。われふねにのりて、このふねをもふねにならしむ。この正当恁麼時を功夫参学すべし。この正当恁麼時は、舟の世界にあらざることなし。天も水も岸もみな舟の時節となれり、さらに舟にあらざる時節とおなじからず。このゆゑに、生はわが生ぜしむるなり、われをば生のわれならしむるなり。舟にのれるには、身心依正、ともに舟の機関なり。尽大地・尽虚空、ともに舟の機関なり。生なるわれ、われなる生、それかくのごとし。
舟が舟であるのも、われがわれであるのも、舟にわれがあるからこそなのである。舟の外に我なく、我の外に舟なし。舟を通じて他のすべてと繋がる。
イラートの「船」と道元の「舟」とが交叉するところに、私たちの実存の本源的姿が鮮やかに照らし出される。