内的自己対話-川の畔のささめごと

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歴史を思いやる想像力 ― 南方熊楠「自分を観音と信じた人」に触れて

2017-12-13 18:30:29 | 読游摘録

 昨日の記事で取り上げた『古代人と夢』の第一章で、西郷信綱は、『今昔物語集』「信濃国王藤観音出家語」(第十九巻第十一話)の全文(結語を除く)を引用した上で、同説話についての南方熊楠の未発表手稿「自分を観音と信じた人」(旧版全集第四巻)での評言を引用している。

東西人共多分は、現代の世相人情を標準として、昔の譚を批判するから、少しも思ひやりなく、一概に古伝旧説を、世にありうべからざる仮托虚構でデッチ上た物と断ずる。

 この評言の中に出てくる「思ひやり」という言葉について、それは、事象を時代の文脈そのもののなかで見ることで、歴史的想像力という言葉に置き換えることもできると西郷は言う(16頁)。
 この場合、思いやりとは、自分の身は今いる場所に留まったままでの単なる同情や共感ではありえない。過去の事象をその時代の文脈そのもののなかで見るためには、資料の博捜、フィールドワーク、確実な証拠に基づいた論証の積み重ねなど、地道な前提作業を必要とする。その上で、その時代の人たちの立場に身を置いて感じ考えてみるだけの想像力を発揮しなくてはならない。
 歴史的想像力としての思いやりは、現在の自分の立場から自由にならなければ生まれないし、無方法でも直感的なものでもない。この意味で、思いやりをもつには自分から対象に近づいていく自発的な行動が必要だし、よく思いやるためには時間もかかる。
 このように歴史を思いやることで、今の自分から少しでも自由になり、人にも優しくなれるといいのだが。