内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

月に遊ぶ人(承前)

2017-12-29 11:31:52 | 読游摘録

 昨日の続きで,『無辺光 片山幽雪聞書』の中の大谷節子先生の文章「月に遊ぶ人」からの抜書き.

 しかし,「継承」とは鍵やバトンの受け渡しではない.伝えられ,伝えていくものの本質は,形なきものである.その家に生まれさえすれば自ずと掌中に収まってくれるような,簡単なものではない.

[…]

 受け継ぎ,伝えていくものは,形なきものでありながら,決して軽き荷ではない.これを負う力を持った時,ようやく人は嗣ぐ資格を得る.嫡子が家を嗣ぐ形式主義を保守賛美しているのではない.嗣ぐに値する力を備えられなければ,「家」は一転して無用の長物となり,足枷と化す.世阿弥は言う.

家,家にあらず.継ぐをもて家とす.(『花伝』第七別紙口伝 跋文)

「家」と呼ばれる,形ある何かがあるのではない.伝える者と,伝えられる者がいて,形に還元できぬ継承が行われた時,それを「家」と呼ぶ.「未熟」の自覚と,到達すべき未踏の領域の「感得」,全ては「覚醒」を促すシステムである.

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 本来「型」は流れとして,ある.型付の記述は,いわば点の指示に過ぎず,このデジタル記号を「型」の流れに再生する能力が,役者には求められる.

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 自らの工夫を話す時,にわかに「書いといた方がいいですか」と私は尋ねられた.このような時,幽雪は私に答えを求めてはいない.書くことによって誤って伝わってしまう,書かないことによってのみ伝えられることがあることを,幽雪は身を以て知っているのだ.

[…]

―「違う」「そやない」を連呼し,周囲を当惑させた幽雪の徹底した否定の提示は,「答え」への依存を回避した,難度の高い,しかし最も確実な伝授の方法ではなかったか.
 日本芸術院会員,能楽観世流シテ方人間国宝片山幽雪は,その刻苦勉励の一生涯を,喜々として生きた.救いの月光を一身に受け,遊ぶが如くこれと一体化する『姥捨』の老女,幽雪がこのどこまでも透明で無垢な存在となり,「無辺光」(阿弥陀仏の光明)を放つ瞬間に,同じ時代に生を受けて立ち会えたことを,幸せに思う.