今日の古代史の授業は今年最後の授業であるだけでなく、前期最後の授業でもあり、後期は二年生の授業を持たないので、この授業に真面目に出席し続けてくれた二年生たちと教室で顔を合わせるのは、あとは年明けの学期末試験のときだけとなった。
学年末試験問題を公表した後、先週予告した通り、今日は遣唐使の話のまとめをした。そのために引用した書目は、吉村武彦編著『古代史の基礎知識』、森公章『遣唐使の光芒 東アジアの歴史の使者』、米田雄介『奇跡の正倉院宝物 シルクロードの終着駅』、上野誠『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』(以上、角川選書)、上野誠『天平グレート・ジャーニー』(講談社文庫)、井上靖『天平の甍』、ひろさちや/芝城太郎『鑑真 戒律を伝えた僧』(鈴木出版)。
それに加えて、もちろん阿倍仲麻呂のかの有名な歌についても、真作説・偽作説・仮託説などさまざまな仮説が提出されていることを説明した。
そして、遣唐使として派遣された人たちばかりでなく、それを送り出す側の気持ちも思いやってほしいと願い、『万葉集』巻第九に収録されている、遣唐使として出発する息子の旅路の平安を祈る母の歌を引用して今日の話を締め括った。時間の都合で、長歌の方は仏訳のみ示し、短歌はパワーポイントを使っていささか詳しく紹介した。
旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽ぐくめ 天の鶴群 (一七九一)
この歌に読まれている情景は霜降る陸路であるが、この歌の作者がその旅路の平安を祈る息子の実際の行路はまずは海路であるから、それとはかけ離れている。しかし、まだ難波を出港したばかり遣唐使たちのその後の危険に満ちた行路を思いやり、早くも異国の地での困難を心配しているとも読める。
それはともかく、この歌の下二句は、なんと美しい響きと映像を表現していることか。と同時に、「我が子羽ぐくめ 天の鶴群」という表現を聞いた瞬間、痛切な母親の感情が天空を満たすのを私は感じないではいられない。
伊藤博は『萬葉集釋注』で「天の鶴群」について、「夜の鶴は子を思うて鳴くという。「天の」は天空にあるものの意だが、「鶴群」を神秘化する効力がある」と注している。
当時、遣唐使船はしばしば難破した。その海路はまさに命がけであった。「愛児の無事をひたすら願う母心が切実に詠まれており、けだし、遣唐使を送る古今の歌の中での秀逸である」(『釋注』)。まったくそのとおりだと思う。『釋注』のこの長短歌についての評釈はこう結ばれている。
ちなみに、この時の遣唐使一行は天平七年三月十日に帰朝した、むろん全員が無事であった保証も記録もない。帰り着いた人の中に、この母親の子が存在しなかったことを想像するのは惨酷に過ぎる。