和泉式部が「あくがる」という動詞をどれくらい使っているかちょっと気になって調べたら、『和泉式部続集』に収録された「人はいさわがたましひははかもなきよひの夢路にあくがれにけり」の一首のみであった。『日記』には出て来ない。これだけの事実から早急に結論づけることはできないが、式部はめったなことでは「魂があくがるる女」ではなかったとは言えるかもしれない。
それに対して、唐木順三も『無常』のなかで指摘しているように、『日記』では「ながむ」という動詞が頻用されている。唐木はそれらの用例から式部における「ながむ」を「眺めながら物を思っている」ことだとまとめる。「この女性は視ることにおいて想っている」という。
上掲の一首ではたしかに「我が魂が夢路にあくがる」のであるが、「物思へば」の一首では、沢の蛍を我が魂かと見ている式部がいる。
『日記』における「ながむ」については2014年11月23日の記事で一度話題にしている。今回は「あこがれ」という言葉の使用例をきっかけとして、古語「あくがる」へと遡り、和泉式部の歌を久しぶりに再訪し、そこから唐木の『無常』を介して『日記』の「ながむ」へと再びたどり着いた。
こんなふうに一つの言葉をきっかけとして古典の世界を「あくがる」ように旅するとき私は時間を忘れてしまう。