内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

哲学はギリシア、信仰はキリスト教という二重的態度

2022-12-24 23:59:59 | 哲学

 現在 Payot et Rivage社の « Petite Bibliothèque » という文庫版に収められている『哲学の慰め』の巻頭には Marc Fumaroli による三十頁を超える序文が置かれている。その序文のはじめの方でフマロリはおよそ次のようなことを言っている。
 『哲学の慰め』が読者に引き起こした讃仰は、それが書かれたときの著者の「悲劇的な」状況とはほとんど関係がない。本書はヨーロッパ文学及び思想の傑作の一つで、それ自体で自足している。著者はやがて処刑されることを知りつつ、繰り返される拷問の合間に本書を書いたのだということを私たちがまったく知らなくても、本書は傑作であり続けるだろう。
 しかし、どのような状況の中で本書が書かれたか知ることも無駄ではない。その理由として、暴政と死に直面して思想によって一人の人間が至りうる偉大さを本書は証言しているからだとフマロリは言う。
 当時のキリスト教界はボエティウスに冷淡であった。そして以後も彼を列聖することはなく、ただ「幸いなるもの」とするだけだった。敬して遠ざけるというに近い。その大きな理由は、ボエティウスの哲学的思考はキリスト教に負うものがほとんどないことである。ボエティウスの哲学はプラトンに何よりも多くを負っていた。
 この点に関しての現在の専門家たちの意見を私は知らないが、畠中尚志は訳者解説の中で次のように述べている。

キリスト教的感化はと言へば、これは従来全く否定的に解されるの慣はしとなつてゐる。事実、本書はキリスト教徒が死の関頭に於て書いたものであるにかゝはらず一度も主の御名にすがることをしてゐない。其処に説かれてゐるのはあくまで理性の福音であつて、信仰のそれではない。この一見奇異な現象から推して、彼は実はキリスト教徒でなかつたのだ、或ひは平素抱いてゐたキリスト教を最後の日に於て放棄したのだ、とする見解が広く行はれて来た。然し推論をそこまで進めることは慎むべきであらう。当時の学者としての彼には、哲学はギリシア、信仰はキリスト教といふ二重的態度があり得たと思はれる。キリスト教とは別に、哲学の中からも宗教的慰めを得るといふことが十分可能だつたのであらう。彼は今哲学を問題とし周囲の万物を理性的に説明しようとしてゐるのであって、神学と啓示とを説かうとしてゐるのではない。だからその中に信仰する魂の表白が特に示されてゐなくても不思議とは言へぬのである。それに本書の思想は、キリスト教精神と背馳しはしない。大局的観点に於てそれはこれと結局調和し得るのである。(『畠中尚志全文集』、p. 175)

 畠中が言う「二重的態度」が仮に可能だとしても、中世西洋においてキリスト教界がそれを是認しはしなかったことも事実である。にもかかわらず、本書が西洋で広く読まれたのは、本書の思想がキリスト教精神と背馳はせず、大局的には結局調和し得るからだとするだけでは、見方としてやや穏健にすぎはしないだろうか。しかし、哲学の慰めはあらゆる宗教と独立に可能なのであるかどうかという問いに今答えを出せるだけの準備が私にはできていない。
 今日のところは、フマロリに依拠しつつ以下の一点を指摘して記事を締めくくる。
 当時、古代ローマ世界においてキリスト教は「近代」を代表し、プラトンやアリストテレスに代表されるギリシア哲学思想はキリスト教よりはるかに長い歴史がある「古代」を意味し、ボエティウスが苦心していたのは、その伝統をいかにキリスト教内に移植するかということであった。