漢語としての「文化」は、古代中国から使われていた語で、「武力や刑罰などの権力を用いず、学問・教育によって人民を教化すること(説苑・指武)」(『漢辞海』第四版、2021年)である。同辞書は第二の意味を「文字の運用能力や図書に関する知識」としている。そして第三の意味は「人間が理想の実現のために果たしてきた精神活動と、それが生み出した物質的財産の総称。学問・芸術・法律・政治などの総称」となっている。私たちは通常この第三の意味で「文化」という語を使っている(ただし、今の現実社会においても政治について「文化」という語を使えるのだろうか)。
「カルチャー」となると、単独で用いられることは少なく、「サブカルチャー」とか「カルチャーセンター」とかの合成語として使われることが多い。この「カルチャー」を「文化」に置き換えられるかというと、必ずしもそうではない。「カルチャーセンター」というはいわゆる和製英語で、『新明解国語辞典』(第八版)によると、「一般社会人を主対象とする各種の教養講座」である。これに対して、「文化センター」というと、「文化」の前にさらに限定語を加えて何か特定の文化を対象としている場合が多いのではないだろうか。
では、culture はどういう意味か。上掲の漢和辞典の第一の意味はない。第二の意味も派生的であって原義ではない。第三の意味は現代の用法としては culture にも当てはまる。
「文化」の「化」には人や物事を変化させるという意味があるが、その動的性格は culture にもある。それは cultiver という動詞に由来することで、その原義は「耕す」ことである。
何を耕すのか。大地を耕せば agriculture である。人間の魂を耕すこと、それが culture である。人間の魂を耕すとはどういうことか。それは教養を身につけることである。しかし、ここでいう教養とは、自分の専門外の広い知識のことではない。
マルク・フマロリは、『哲学の慰め』に寄せた序文の中で、ボエティウスは、キケロが cultura animi というときの cultura の根源的な意味を回復させたという。その意味とは、端的に言えば、魂の「存在理由」ということである。この意味での「文化(あるいは教養)」とは、「虐げる者によって打ちのめされた人が、その虐げる者に立ち向かい、崩折れることなく、己の信じるところを固く守ることを可能にするもの」である。
この意味での「教養」を身につけることは、よく生きていくために必要な精神的修練(exercice spirituel)である。