昨日、渡辺京二氏が逝去された。齢九十二歳。死因は老衰。自宅で息を引き取られたという。天寿を全うされたという表現がふさわしく思う。新聞・テレビなどの報道では、評論家、思想史家、日本近代史家などと紹介されているが、ご本人はそのいずれでもないと思っていらっしゃったのではないか。自らを「独学者」と考えていた。
手元には、『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)、『黒船前夜』(洋泉社)、『バテレンの世紀』(新潮社)の紙版があり、電子書籍版では、『幻影の明治』(平凡社ライブラリー)、『維新の夢』(ちくま学芸文庫)『民衆という幻像』(同文庫)、『無名の人生』(文春新書)、『父母の記』(平凡社)を所有している。
『逝きし世の面影』を最初に読んだのは数年前のことだ。衝撃的だった。幕末から明治初期の名もなき庶民の生き方についてそれまで漠然と抱いていたイメージがことごとく覆された。その文章に魅せられた。歴史研究者の文章ではない。論文には使えない生き生きとしたエピソードが実に巧に鏤められている。
本書は古き佳き失われた日本の礼賛本ではない。『幻影の明治』に収められた新保祐司氏との対談の中で渡辺氏自身、「これは、日本人の書き手として、日本人がこんなによく書かれている、嬉しいな、という本ではない。むしろあえて言えば、西洋人の立場から、日本は面白い、と書いた本だと思う。[…]要するに人類史の一つとしての日本人、人類を代表している日本人なんです。そういうものとして読んでいかないと面白くないし、また単に面白いエピソードを並べるだけでもしょうがない。そうしたエピソードを自分自身の時代把握の中でどう配置するかが重要です。」と述べている。
以後、上掲の著作を次から次へと読んだ。そして今でも繰り返し読んでいる。自ずと愛読したくなる文章なのだ。歴史叙述としてこれほど楽しんで読める文章はそうそうないのではないだろうか。
『バテレンの世紀』と『逝きし世の面影』とは講義「近代日本の歴史と社会」で毎年言及する。それはそこに叙述されたエピソードの面白さを知ってほしいからだけではなく、日本近代を捉え直す視点を学んでほしいからだけでもなく、何よりもその文章を味わってほしいからだ。
昨夜は、氏の冥福を祈りつつ、上掲の諸著作のところどころ読み直して過ごした。