来週一週間で前期の授業をほぼ終える。一月に一コマだけ補講があるが、それは試験週間の初日に行われるので、その週の金曜日の試験のための総復習にあてるつもりだ。
この年末年始の一時帰国は諦めた。航空運賃がべらぼうに高いこともあるが、年末までに仕上げなくてはならない論文があり、参考文献が手元にある自宅でそれに集中したいということもある。この論文はかなり大規模な共著に収録されることになっている。編集責任者からも是非書いてくれと再三連絡があったこともあり、それだけこちらも力が入っている。
あと一週間でノエルの休暇に入ることが気持ちに少し余裕を与えているのだろう。先日から詩歌を読んで楽しむ心のゆとりが生まれた。それはただ酔うために酒を飲むのではなく、酒そのものを味わうことができるときの心のゆとりに似ている。
誰かの私家集、勅撰和歌集、あるいは現代歌人の手になる古典名歌のアンソロジーなどを行き当たりばったりに開いて、ところどころ読む。そのときのこちらの気持ちによって目に留まる歌も変わる。
詩歌の世界を逍遥するとき、自分で作歌することもない無粋な私には、やはり手練の玄人の導きがありがたい。塚本邦雄氏の手になる数々のアンソロジーは私にとってかけがえのない案内書だ。現代歌人の馬場あき子さんのご著作にもときどきお世話になっている。『日本の恋の歌 恋する黒髪』(角川学芸出版、2013年)もその一冊だ。
本書の第一章は「和泉式部の恋と歌」と題されている。他の歌人の歌も引かれてはいるが、それも和泉式部の恋の歌の名手としての稀有な才能と感性を際立たせるためである。彼女の数々の歌が今も私たちの心を直接に打つことが多いのは、それらの歌が技巧を超えて切実な実感をたたえているからだと馬場さんは言う。その通りだと思う。
和泉式部は、『後拾遺集』において男女通じて圧倒的な入集歌数(六十八首)を誇る。そのうちの約半数が恋の歌である(雑の部に収められた恋にまつわる歌を含む)。そのほとんどに歌が詠まれた現場を示す詞書が付されている。そのことについて、馬場あき子さんは、当時の歌人たちが「心から心に伝わる言葉の秘密がどこにあるかを、和泉式部の歌にみていたにちがいない」と見ている。
いたづらに身をぞ捨てつる人を思ふ心や深き谷となるらん 『和泉式部正集』
この歌は二句切れである。「いたずらにこの身を捨ててしまった。深い谷となったような人を思う心に。」この歌を馬場さんは次のように解している。
「人を思う心」を「深き谷」だといっている。これは言葉のあやとしての比喩ではない。式部が多くの「恋」の場を通して得た実感といった方がふさわしい。その心づくしの谷は深く、暗く、恐ろしいような空隙である。いったん身を投げればその人の人生を狂わせるような「谷」の自覚が式部の恋なのである。命がけのような真摯な眼がそこにはある。本物の心と出会おうとする冒険が式部の恋の一つ一つにあったと思わせるような恋の部の冒頭歌である。
ひとを真剣に恋するゆえに深い谷となった我が心に身を捨ててしまった、というのは確かに彼女の実感であったに違いない。それは恐れ慄かされるような実感である。それを宿命として受け入れ、恋に生きることではじめて、和泉式部の恋歌は生まれたのだ。