サッカーの世界で使われている「ホーム」「アウェー」という言葉を私自身の立ち位置について僭越ながら転用させていただくと、私はいつも「アウェー」で戦っているということになります。裏を返せば帰るべき「ホーム」がないのです。
それは二重の意味においてです。祖国(この言葉、私、偏愛しているのですが、なんかもう古色蒼然としているのでしょうか)から遠く離れ、日本文学研究に挫折した後に学部一年から勉強し始め、おフランスで博士号まで取得した哲学の分野でまともな仕事をすることもできず、アウェーでの転戦に継ぐ転戦だということです。
そんなトホホな境遇に置かれて、ただただ悲しくなることもありますし、「ああ、どこかに帰りたい!」と絶望的に嘆息することもありますし、端的に言って、こんな生き方、疲れます。
でも、こうなるしかなかったのだとも思います。それは運命などという大げさなものではなく、あらゆる意味においての自分の拙さが己をここに至らせたということに過ぎないのです。わかっていますよ、それは。
アウェーで連戦連敗、勝利の経験なんてまったくありません。「てめぇなんか、やめちまえ!」という罵声を日々浴びつつ、「でも、やめたら行くとこないし……」「まだ使ってもらえるだけで御の字ですっ!」ってな感じで、今日もピッチに立っているというところでしょうか。
そんな状況の中、哲学についての記事を書いていると、思いもかけず、ありがたくも暖かい声援をいただき、「あれっ、これって、いいの?」とウルウルと戸惑いつつ、これが「縁」というものなのだと勝手に都合よく解釈し、元気を取り戻し(タンジュンでよかったわねぇ~)、「アウェー」で戦い続けること、それこそがテツガクである、と日曜の朝に開き直る私なのでありました。