先を急ぐこともなく、行きつ戻りつしながら好きなテキストを味読するのは楽しい。その味読の間に参照したいテキストも次から次に出てくる。それらの本が机上に積み重なっていく。それを眺めるのも嬉しい。研究のためというわけでもなく、ましてや論文に仕立て上げようという意図などまるでなく、ただこうしてブログにその読書記録を記していく。そのこと自体が私にとって喜びなのだ。
さて、一昨日の記事の最後に言及したドミニック・ジャニコーの本を読み直す前に、アドが『イシスのヴェール』でラヴェッソンに言及しているもう一つの箇所を見ておきたい。というのも、その箇所に付けられた注の一つでアドがまさにジャニコーのその本に言及しているからだ。そのもう一箇所は、『イシスのヴェール』第18章「美的感覚と形の生成」「5 螺旋形と蛇行線」の中にある。
螺旋や蛇行に自然美を見出すルネサンス以来の美的感覚の伝統にラヴェッソンもまた連なり、その絵画教育法の考察もそれに基づいている。ラヴェッソンによれば、芸術家はものを囲い込むような輪郭線ではなく、形を生み出す動きとしての蛇行曲線に注目しなければならない。こう説明した後にアドは例のベルクソンの「ラヴェッソン氏の生涯と業績」の中に引用されたダ・ヴィンチの『絵画論』の一節をそのまま全文引用する。ただ、その一節が『絵画論』からの引用であるという説明ぬきなので、あたかもラヴェッソン自身の所説のように読めてしまうが、この文脈ではそう取られても特に誤解を招くわけでもない。
それよりも注目したいのは、この引用に続けて、ラヴェッソン最晩年の著作である『哲学的遺書』の数節にアドが言及していることである(『遺書』については2015年12月12日の記事から16回連続して取り上げているのでそちらも参照されたし)。アドによれば、『遺書』のなかでラヴェッソンは「自然の方法と法則 la méthode et la loi de la nature」(日本語訳は「自然法則の方法」と誤訳している)を発見するために絵画教育法についての所論をさらに推し進めている。
そこでもラヴェッソンはミケランジェロとダ・ヴィンチを援用している。ところが、『教育学辞典』の「デッサン」の一節とは違って、自然の中に実在する蛇行や波動の背後に何か「形而上学的な線」を見出そうとするのではなく、個々の存在を「自然の一般的な方法の個別的な表現 une expression particulière de la méthode générale de la nature」として捉えようとする努力としてダ・ヴィンチの教説を解釈している。
Comme s’il pensait que dans chaque manière de serpenter ou d’ondoyer se révélait le caractère propre de chaque être ; chaque être serait ainsi une expression particulière de la méthode générale de la nature, expression elle-même de l’incarnation aux formes multiples de l’âme génératrice.
Ravaisson, Testament philosophique, Allia, 2008, p. 76
アドが引用しているのは1932年刊の Ch. Devivaise 編版である(BNF の Gallica で閲覧・ダウンロードできる)。この版には、ベルクソンの「ラヴェッソン氏の生涯と業績」が序論として巻頭に置かれている。ただ、なぜかわからないが、アドが参照した版にも上の引用の最後の一句 « expression elle-même de l’incarnation aux formes multiples de l’âme génératrice » がちゃんとあるのに、アドはそれを引用していない。しかし、その直前の句と同格に置かれたこの一句はラヴェッソン晩年の思想を知る上で重要だと私は考える。
なぜなら、この二つの expressions が相俟って、個々の具体的な存在を通じて自然の一般法則を探究する科学的自然観と、自然を生成する魂と考え、個々の存在をその魂が無数の形を取った受肉の表現そのものとする汎生命論的存在論とが統合される途が開かれるからである。このように解釈してよいのならば、晩年のラヴェッソンは、デッサン論での所論からさらに一般化された哲学へと歩を進めようとしていたと言えるだろう。
この哲学の構想が十九世紀末に「遺書」として遺されたことは象徴的である。二十世紀の哲学者たちは、ベルクソンも含めて、ラヴェッソンの知的遺産をほんとうには相続しないままに終わり、今や二十一世紀ももうすぐ最初の四半世紀を終えようとしているのではないだろうか。