今日の話は他愛もない。いや、今日の話も、というべきか。ほんとうに書きたいことになかなか辿り着けずに、お茶を濁してばかりいる。「茶濁記」と題する所以である。
日本の配信サイトと VPN のおかげで、かつては日本でのみ視聴可能だったテレビドラマや映画を今では海外でもそれこそほとんど好きなだけ自分の都合のいい時間に観ることができる。私にとって、20年前にはとても想像できなかったことである。それをありがたく享受している。もちろんそれなりの契約料を払ってのことではあるが。それは、しかし、大海の如き享受の喜びに比べれば、芥子粒くらいの家計の痛手に過ぎない(これはさすがにちょっと大げさか)。
こんなに自由なアクセスを享受するようになって三年ほどになるが、その間に気づいたことがある。それは、その自由なアクセスに対する私自身の反応についてである。自分でもちょっと驚いた。だから誰でもそうだろうと一般化できる話ではないとは思う。
テレビの連続ドラマが全話一挙に配信されている場合、その気になれば、一気に観られるわけである。全話一気とまではいかなくても、自分の好みと都合に応じて、何話かまとめて観てもいいわけである。ところが、私は、一話観ると今日はもうこれで「ごちそうさま」という気分になる。たとえその日二三話続けて観る時間の余裕があったとしても、そうなのである。
なぜなのだろう。一話完結であろうがなかろうが、その一話で得られたいい気分を何話か立て続けに観てぶち壊したくないと思うのである。放映時のように一週間に一話ずつとまでは思わないが、とにかく続けて観たいとは思わない。作り手の側が一話としてまとめたものをそのまま受け取りたい。ただし、こういう気持ちになるのは、その作品がそれだけいい作品だからこそであって、駄作に対してはそうは思わない、というか、そもそも観ない。
先週木曜からNETFLIXで世界配信が始まった是枝裕和監督の『舞妓さんちのまかないさん』(全九話)をそんな気持ちで毎日一話ずつしみじみと味わいながら観ている。とても佳い作品だ。今日第八話を観た。明後日最終回第九話を観るつもり。学生たちにも「ぜひ観るように」と強く勧めておいた。全話観終えてから感想を述べたい。