内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「スピリチュアル/スピリチュアリティ」という言葉をめぐる感想

2023-01-13 23:59:59 | 哲学

 島薗進の『精神世界のゆくえ 宗教からスピリチュアリティへ』(法蔵館文庫、2022年)によると、日本の新聞紙上に「スピリチュアリティ」や「スピリチュアル」という語が目立つようになったのは2006年のことだという。それは様々な社会現象や文化活動を伴ってのことだが、人々の中に「日常性や合理性の向こうにある超越性や神秘の領域に関わる」何かを求める志向の強まりと対応している。「宗教っぽい」が「宗教」ではないその何かを指し示すのに「スピリチュアリティ」とか「スピリチュアル」などの言葉が好まれるようになったらしい。
 この「スピリチュアリティ」に対応する日本語となると、「霊性」あるいは「精神性」(あるいは「精神世界」)となるが、最近では「霊性」という言葉がかなり目立つようになってきている。「霊性」という言葉は鈴木大拙の『日本的霊性』(1944年)以来、一般にも知られるようになったが、戦後しばらくはあまり使われることもなかったように思う。それがまた復活してきているのは、既存の宗教のいずれかに帰依することなく、日常性・合理性・物質性・対象性などに還元され得ない何かに生きるよりどころを求める志向が人々の間で強まってきているからなのだろう。
 この霊性志向を、島薗進は、「グローバルな広がりをもって展開し、「宗教」と「近代」(近代合理主義や近代科学)に替わる新たな生き方考え方を求める運動、あるいは文化として理解し、新霊性運動(あるいは新霊性文化)」と呼んできた。日本での霊性志向もそのような世界的な運動の一つの現れとして捉えることができるのだろう。
 霊性をめぐる日本固有の問題としては、そもそも「宗教」という語が明治期に religion の翻訳語として採用され、特にキリスト教がその代表とされたという特殊事情がまずあると思う。この点は、阿満利麿の『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書、1996年)以来、盛んに議論されてきたことだ。「無宗教な」日本人たちが「スピリチュアリティ」や「スピリチュアル」なものへの親和性を示すのは日本固有の近代性と無縁ではない。
 霊性志向へと向かわせるもう一つの要因として、阪神淡路大震災や東日本大震災・福島第一原発事故などによって多くの人たちが受けた心の深い傷もあるように思う。それまで確かにあると思っていたものがもろくも崩れ落ち、家族や友人などを一瞬にして失ったことによる心の傷は、物質的な埋め合わせができないのはもちろんのこと、心療内科やカウンセリングでは癒されないことも多々あろう。そのような苦しみの中から霊性への志向が生まれることもあるだろう。
 なんでこんな話を持ち出したかというと、フランス・スピリチュアリスムに対して哲学史の一系譜としてガクモン的な関心を持つだけではなく、上記のような現代の社会的な文脈も背景としつつ読み直したいと考えているからである。