内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ラヴェッソンによるダ・ヴィンチ『絵画論』からの引用に関する一つの疑惑

2023-01-09 23:59:59 | 読游摘録

 ピエール・アドの『イシスのヴェール』にはラヴェッソンに言及している箇所が二つある。一つは、第1章の終わりで、ラヴェッソンの間違いを指摘している箇所である。ラヴェッソンは『哲学的遺書』のなかで「自然はみな死を求める(Toute nature aspire à la mort)とレオナルド・ダ・ヴィンチは言う」と書いているのだが、それについての解釈が間違っているだけではなく、そもそもダ・ヴィンチはそんなことは言っていないとアドは言う(『イシスのヴェール』小黒和子訳、法政大学出版局、2020年、16頁)。ラヴェッソンはダ・ヴィンチの表現を書き換えてしまっているのだ。
 ちなみに、アドの原文では déformer という動詞が使われており、この文脈では、「元の形を歪める」という批判的な立場からの強い意味で使われており、日本語訳の「意味を取り違える」は適切ではない。取り違えであれば、不注意からとか、うっかりして、という言い訳も成り立つが、déformer は単なる過失では済まされない。
 この箇所を読んで、にわかに私のうちに疑惑が生まれた。それは先日来何度か引用しているベルクソンの「ラヴェッソン氏の生涯と業績」でラヴェッソンが引用することを好んだとベルクソンがいうダ・ヴィンチの言葉についての疑惑である。出典であるはずのダ・ヴィンチの『絵画論』には複数のフランス語版があり、中にはテキスト校訂に関して信用の置けない代物もある。編者が勝手にダ・ヴィンチの言葉を「編集」してしまっていることもあるという。
 いまだにラヴェッソンが参照したのがどの版なのか突き止めるに至っていないし、もしかすると『哲学的遺書』の場合のように、ラヴェッソン自身が「編集」してしまっている可能性も今の段階では否定できない。ベルクソンはそんなことは気にせずに、ラヴェッソンの『教育学辞典』執筆項目「デッサン」からダ・ヴィンチの言葉として引用している。
 問題は単に書誌的なレベルではない。ダ・ヴィンチとミケランジェロに始まるとされる、蛇行線に生命に固有な運動を見る芸術的直観は近代を貫く長い美学思想の淵源だからである。そして、このうねるような線の背後に目に見えない形而上学的な線を精神の眼で見る、あるいはこの線を形而上学的な線と同一視するラヴェッソンとベルクソンの解釈は、ダ・ヴィンチともミケランジェロともほとんど無縁である。とすれば、イタリア・ルネッサンスに始まる生命の運動としての蛇行線の系譜学は、ラヴェッソンとベルクソンによって、良く言えば、新たな展開を遂げたのであり、悪く言えば、己の起源を否定することで自壊したのである。
 『眼と精神』でのラヴェッソンとベルクソンに対するメルロ=ポンティの批判的な言辞をこの系譜学との関係において読み直すことは、メルロ=ポンティが構想しつつあった新しい存在論のより深い理解を可能にしてくれる。
 そのためには、しかし、必ず参照すべき本がもう一冊ある。ドミニック・ジャニコ-(Dominique Janicaud, 1937‐2002)の Ravaisson et la métaphysique, Vrin, 1997 (1re édition, Martinus Nijhoff, 1969) である。