内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ベルクソン化されたラヴェッソン像を越えてラヴェッソンへと戻る途を開く

2023-01-14 05:12:44 | 哲学

 11日の記事で提示したラヴェッソン解釈を前提とすると、『眼と精神』におけるメルロ=ポンティのラヴェッソン批判は、デッサン論に対しては妥当であるとしても、最晩年の思想には当てはまらない。ドミニック・ジャニコーが Ravaisson et la métaphysique のなかで指摘しているように、メルロ=ポンティはラヴェッソンのテキストは読まずに、ベルクソンのラヴェッソン論にのみ依拠して、ラヴェッソンとベルクソンの不徹底を批判している。
 しかし、ここではメルロ=ポンティのラヴェッソン批判の不当性を指摘することが目的ではない。ラヴェッソンの哲学を顕彰するベルクソンの「ラヴェッソン氏の生涯と業績」の圧倒的な影響力がそれ以降のラヴェッソン解釈を方向づけてしまい、メルロ=ポンティもその影響下にあったということを確認しておきたいだけである。
 ベルクソンという écran(ジャニコーの言葉、画面・スクリーンのこと)に大写しにされた「ラヴェッソン」像の陰に生けるラヴェッソンの哲学の大切な部分が隠されてしまったことは、「生涯と業績」における『習慣論』に対する扱いの軽さ(矮小化とまでは言わないとしても)によく表れている。「生涯と業績」はまさに「ベルクソン化された」(これもジャニコーの言葉)ラヴェッソン像として実に見事な出来なのである。
 これは決して皮肉で言っているのではない。実際、ベルクソンならではの洞察もきらきらと光っている名篇である。私が特に感嘆せずにいられないのは次の一節である。

Comment ne pas être frappé de la ressemblance entre cette esthétique de Léonard de Vinci et la métaphysique d’Aristote telle que M. Ravaisson l’interprète ? Quand M. Ravaisson oppose Aristote aux physiciens, qui ne virent des choses que leur mécanisme matériel, et aux platoniciens, qui absorbèrent toute réalité dans des types généraux, quand il nous montre dans Aristote le maître qui chercha au fond des êtres individuels, par une intuition de l’esprit, la pensée caractéristique qui les anime, ne fait-il pas de l’aristotélisme la philosophie même de cet art que Léonard de Vinci conçoit et pratique, art qui ne souligne pas les contours matériels du modèle, qui ne les estompe pas davantage au profit d’un idéal abstrait, mais les concentre simplement autour de la pensée latente et de l’âme génératrice ? Toute la philosophie de M. Ravaisson dérive de cette idée que l’art est une métaphysique figurée, que la métaphysique est une réflexion sur l’art, et que c’est la même intuition, diversement utilisée, qui fait le philosophe profond et le grand artiste. M. Ravaisson prit possession de lui-même, il devint maître de sa pensée et de sa plume le jour où cette identité se révéla clairement à son esprit. L’identification se fit au moment où se rejoignirent en lui les deux courants distincts qui le portaient vers la philosophie et vers l’art. Et la jonction s’opéra quand lui parurent se pénétrer réciproquement et s’animer d’une vie commune les deux génies qui représentaient à ses yeux la philosophie dans ce qu’elle a de plus profond et l’art dans ce qu’il a de plus élevé, Aristote et Léonard de Vinci. (PUF, 2009, p. 265-266)

こうしたダ・ヴィンチ美学とラヴェッソン氏の解釈するアリストテレス形而上学とのあいだには、驚くべき類似性が見いだされる。ラヴェッソン氏はアリストテレスを、事物の物質的メカニズムしか目に入らない自然哲学者やあらゆる実在を類型化するプラトン主義者と対立させて、精神の直観により個物の根底に個物を生かして特徴づける思考を求める哲学者として描いている。それはまさにアリストテレスの思想を、ダ・ヴィンチが構想し実践した芸術、すなわちモデルの物体的輪郭に囚われず、といってそれを抽象的理想のために曖昧にすることなく、潜在的な思考と生成的な魂のまわりに集中させる芸術についての哲学にすることではなかろうか。ラヴェッソン氏の全哲学は、芸術とは形にあらわれた形而上学であり、形而上学とは芸術に対する思索であるということ、すなわち同一の直観が違ったふうに用いられて深遠な哲学者と偉大な芸術家が生まれるという考えに由来している。ラヴェッソン氏が自己を把握して自らの思考と文章の主人となったのは、そうした同一性が彼の精神にあきらかに示された日であった。その同一化がなされたのは、ラヴェッソン氏を哲学と芸術とに別々に向けていた二つの流れが、彼の内部で合流したときであった。そしてこの合流が果たされたのは、彼の眼に最も深い哲学と最も高い芸術を代表する二人の天才、すなわちアリストテレスとレオナルド・ダ・ヴィンチが相互に浸透し合い、二人が共通の生命を生きていると思われたときであった。(原章二訳『思想と動き』平凡社ライブラリー)

 ジャニコーの大きな貢献の一つは、この見事なまでにベルクソン化されたラヴェッソン像を徹底的に検証し直し、ベルクソンという大きなスクリーンを越えてラヴェッソンへと立ち戻る途を開き、ラヴェッソンのものはラヴェッソンに返し、フランス・スピリチュアリスムの系譜学を書き直したことにある。