昨日の記事に長々と引用したアンドレ・マルシャンの発言の中で traduire という動詞が三回使われている。もちろんこの文脈では、ある言語で書かれたテキストを別の言語に翻訳するという意味ではない。もともと traduire は法律用語で、「ある場所から別のある場所に移動させる」、とくに「法廷に召喚する」という意味で用いられた。ラテン語の traducere に由来する。
それが「翻訳する」という意味で使われるのは16世紀半ばからのことで、次第にこの意味での用法が一般化する。17世紀半ばになると、「表現する、解釈する」という抽象的な意味でも使われるようになる。例えば、「(ある人の)考えを表現する」という使い方である。19世紀になると、この意味での用法が芸術の分野で広まっていく。
アンドレ・マルシャンにとって、traduire とは、諸事物の魂が語りはじめるのを待ち、その「言葉」を聴き取り、それをキャンバスの上に表現することだ。いわゆる表現主体としての画家が何か己の内にあるもの表現するのではない。画家とは、彼にとって、諸事物の魂がキャンバスの上に色彩と形によって己の姿を現すためのいわば媒介者である。
『眼と精神』に銘句として掲げられているガスケが伝えるセザンヌの言葉 « Ce que j’essaie de vous traduire est plus mystérieux, s’enchevêtre aux racines mêmes de l’être, à la source impalpable des sensations. » の中の traduire も「翻訳する」という意味ではないが、マルシャンの言う意味での traduire とはまた微妙に違っているように思われる。
文脈に即して言い換えるならば、「そのままでは捉えがたい何ごとかをある形において表現して、伝わるようにする」という意味であろう。だから、比喩的な意味で「翻訳する」ことだという説明も成り立たないわけではない。実際、みすず書房版の訳は「私があなたに翻訳してみせようとしているものは、もっと神秘的であり、存在の根そのもの、感覚の感知しがたい源泉と絡みあっているのです」となっている。
富松保文訳は「私があなたに伝えようとしていることはもっと不思議で、存在の根源や手にとってみるわけにはゆかない感覚の源にからまっているものなのです」となっている。脚注によれば、富松訳はガスケの『セザンヌ』(岩波文庫)の與謝野文子訳に拠っている。與謝野訳は、「あなたに伝えようとしていることはもっと不思議で、存在の根源や手にとってみるわけにはゆかない感覚の源にからまっているものなのです」(220頁)となっているから、富松訳は「私が」を補っていることがわかる。その点を除けば、両者は同一の訳である。
セザンヌの言葉は銘句として掲げられているだけで元の文脈がわからないから、みすず書房版のように「翻訳」と訳すのはやはり誤解を招きやすいのではないだろうか。存在の根源にある「言語」はそのままでは理解しがたいから、画家はそれを絵画という「言語」に「翻訳」するのだという意味だと解釈できなくはない。そうすると、しかし、画家の仕事は、それ自体として在る存在の原テキストを色彩と形によって翻訳することだということになるのだろうか、という問いが生じる。
次に、impalpable をみすず書房版は「感覚の感知しがたい」、與謝野訳は「手にとってみるわけにはゆかない」と訳している点について。原義は「手で触れることができない」ということであるから、與謝野訳が間違っているわけではない。しかし、メルロ=ポンティが諸感覚には感覚そのものには還元され得ない源泉があるという存在論的な含意を持たせつつセザンヌのこの言葉を銘句として掲げているのだとすれば、みすず書房版の訳のほうがその含意をよりよく伝えていると言えるだろう。ただし、セザンヌ自身が言いたかったことをどちらの訳がよりよく伝えているかというのは別の問題として残る。
もう一点、両訳を比べて問題になることは、みすず書房版は「存在の根そのもの、感覚の感知しがたい源泉」と両者を同格と取り、両者は同じ一つのことと捉えているのに対して、與謝野訳は両者を並列し、同一のこととは見なしていないことである。
この点に関しては、私はみすず書房訳を支持したい。つまり、「存在の根そのものは感覚によっては感知しがたい源泉である」というのがセザンヌの考えで、メルロ=ポンティもセザンヌの言葉をこの意味で捉えたからこそ、銘句として掲げたのだと理解しておきたい。
これらの問題について早急に結論を出すことがここでの目的ではない。メルロ=ポンティが引用あるいは参照している他者の諸テキスト及びメルロ=ポンティ自身の他の著作も参照しつつ、『眼と精神』を半年かけてじっくりと読み直しながら、これらの問題を検討していきたい。