内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

樹々が私を見ている、私に語りかけてくる

2023-01-04 23:59:59 | 読游摘録

 『眼と精神』に引用されている画家たちのさまざまな言葉(証言、経験談、絵画論等々)はそれ自体とても興味深い。それらの引用の出典の一つがジョルジュ・シャルボニエ(Georges Charbonner, 1921‐1990)の Le monologue du peintre, Paris, Julliard, 1959 (『画家の独白』未邦訳)である。
 著者のシャルボニエは、実に多面的な才能を発揮した人で、大学で教えながら、フランスのラジオやテレビでプロデューサーやディレクターとして番組を企画し、かつ作家、批評家、翻訳家でもあった。特に、対談やインタビューの名手として知られていた。レヴィ=ストロース、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、マルセル・デュシャン、ミッシェル・ビュトールなどの著名人たちとの対談は日本語訳も出ている。
 『眼と精神』II節の三箇所に上掲書からの引用がある。原本は未見なのだが(今日明日中に2002年の復刊版が届く)、おそらく本書も画家たちとの対話あるいは画家たちへのインタビューから構成されているのだろう。それら三つの引用のうち、私には、アンドレ・マルシャン(André Marchand, 1907-1998)という画家の言葉がことのほか心に響いた。

« Dans une forêt, j’ai senti à plusieurs reprises que ce n’était pas moi qui regardais la forêt. J’ai senti, certains jours, que c’étaient les arbres qui me regardaient, qui me parlaient… Moi j’étais là, écoutant… Je crois que le peintre doit être transpercé par l’univers et non vouloir le transpercer… J’attends d’être intérieurement submergé, enseveli. Je peins peut-être pour surgir. »

L’Œil et l’Esprit, Gallimard,1964, p. 31.

森のなかで私は幾度となく、森を見ているのは私ではないという感覚を抱きました。木々こそが私を眺め、私に語りかけてくるのだという感覚を抱いたことが幾日もありました……。私はと言えば、そこにいて、耳を傾けていました……。私が思うに、画家は宇宙に貫かれるべきであり、宇宙を貫こうと願うべきではありません……。私は内的に沈められ埋められるのを待ち受けているのです。おそらく私は浮かび上がるために描いているのです。(富松保文訳・注『メルロ=ポンティ『眼と精神』を読む』武蔵野美術大学出版局、2015年、95‐96頁)

 この経験は自然の擬人化などということではまったくない。画家にとって決定的とも言える存在経験なのだ。メルロ=ポンティはこの引用に続けてこう述べている。

Ce qu’on appelle inspiration devrait être pris à la lettre : il y a vraiment inspiration et expiration de l’Être, respiration dans l’Être, action et passion si peu discernables qu’on ne sait plus qui voit et qui est vu, qui peint et qui est peint.

Ibid., p. 31-32.

インスピレーション〔霊感=吸気〕と呼ばれているものは、文字通り受け取られるべきだろう。まさに《存在》のインスピレーションとイクスキレーション〔呼気〕、《存在》のうちでのレスピレーション〔呼吸〕というものがあるのであって、ここでは能動と受動はほとんど見分け難く、もはや誰が見、誰が見られているのか、誰が描き、誰が描かれているのかわからないほどである。(同書、96頁)

 マルシャンの言葉とその直後の一節にはメルロ=ポンティが当時構想しつつあった新しい存在論の核心にふれるものがある。と同時に、『知覚の現象学』の序文のなかの有名な一文「真の哲学とは世界の見方を学び直すことである」(« La vraie philosophie est de rapprendre à voir le monde. », Phénoménologie de la perception, Gallimard, 1945, p. XVI)に示された哲学的姿勢がメルロ=ポンティにおいて最後まで貫かれていたことも証ししている。