松崎一平氏によるボエティウスの『哲学のなぐさめ』の新訳が京都大学学術出版会の「西洋古典叢書」の一冊として今月二十五日(奥付による)に刊行され、アマゾンに予約注文してあったおかげで、刊行日の二日後の今日日本から届いた。学術的に現在望める最高水準の日本語訳および訳注であろう。
ボエティウスが参照した古典の参照箇所については、「衒学的といっていいくらい数多くあげている」 Bieler 版に依拠しているが、各左頁にまとめられた訳注には訳者自身による注解も多く、その情報量は膨大である。既存の邦訳を質量ともに圧倒的に凌駕する訳業だ。
『哲学のなぐさめ』は、全五巻をとおして散文と韻文が交互に現れる韻散混交体である。その散文は、「衒学的でなく、知的で、明晰で、むだのない、おおむね淡々とした、いわば楷書体の文章だ」と訳者は言う。「その雰囲気が伝わるように願いながら、できるだけていねいに訳すことをこころがけた」というのが訳者の姿勢である。この姿勢は学術的な仕事にとってまさに正道だと言えよう。
韻文に対する細心の注意を払った訳業と詳細な訳注は欧米でもあまり例がないのではないか。その彫心鏤骨さは凡例の四を読めばわかる。その第一段落のみ引く。
「歌の音楽的な魅力を伝えることは困難だが、視覚的な雰囲気だけでも伝えられたらと考えて、歌を訳すにあたり、対話の一部ということに配慮しながら、① 原詩と行数をそろえ、可能なかぎり語順や意味が原文の行と対応するように、さらに② 行の切れ目があるときには、できるだけ読点を打って訳した。散文詩として訳したが、以上の二つの制約に従うことで、リズム上の制約をとりわけて重要な本質とする韻文に少しだけ倣ったつもりだ。また、いくらかでも歌と散文、歌と歌の関係を考えるヒントになるように、各歌の韻律(リズム)を註でごく簡単に説明した。」
この後にその韻律の基本単位である音節についてのかなり専門的な術語を用いた説明が続く。
このような工夫が凝らされた訳は、結果として倒置法を多用することになっており、それに慣れるには少し時間がかかる。
『哲学のなぐさめ』は中世によく読まれ、聖書について多くの写本が伝わるという。しかし、日本では、その書名は知られていても、よく読まれてきたとは言い難い。その理由について、永嶋哲也氏は、本書の月報に寄せた文章「救済としてのコンソラチオとその裾野の広がり」のなかで次のような興味深い指摘をしている。
西欧全体がギリシアに憧れた十九世紀、その先頭に立ったのはドイツであった。新古典主義美学の牙城であった先進国フランスに対する対抗心から後発のドイツは、過剰なまでにラテン・ローマ文化を貶めギリシア文化を称揚した。ボエティウスの『哲学のなぐさめ』がかつてほど読まれなくなったのもこのような十九世紀の文化潮流と無関係ではない。そのドイツ文化の影響を強く受けた明治大正の知識人たちは、十九世紀ドイツ文化の「ローマ軽視」を無自覚にそのまま受け入れてしまい、それが現在にまで及んでいる。
この指摘の当否はともかくとして、西洋哲学思想史上で『哲学のなぐさめ』が果たした役割の大きさを考えれば、やはり西洋哲学思想史上の古典中の古典の一つとして日本においても読まれるべきであろう。本訳業によって、最新の学問的成果に基づいた学術的に信頼の置ける優れた日本語訳が得られたことは、日本における西洋哲学研究にとってまことに慶賀すべきことである。