一昨年十一月に生成AIが市場に登場して以来、学生にレポートを書かせる意味が深刻に問われるようになったのはフランスも同じである。
もうこれって完全に生成AI作だねっていう「現行犯逮捕」にも比せられるケースも学部レベルレでは頻発しているようである。そこまで露骨ではない場合でも、あきらかにAIに「アシスト」されている文章を見破るのはそれほど難しいことではない。
それだけに、今回の修士一年の秀逸なレポートに対して私はほとんど鑽仰の念を抱いていると言っても過言ではない。現時点で提出されている十七本のレポートのうち、最優秀の三本はほんとうに「本気モード」で書かれている。つまり、自分で立てた問題について文献を渉猟した上で、当の問題を自らの頭で真剣に哲学的に考えているのである。他のレポートがいい加減だというわけではないのだが、多かれ少なかれ「他人の褌で相撲を取る」類であるか、表面的・一面的・一方的な「私の主張」の表明に終わっているのに対して、最優秀の三本は、問題に対して可能な異なった立場について吟味した上で、自分の考察を明確かつ論理的に提示することに成功している。筆者は三人とも女子学生。
別に順位付けを目的としているわけではないのだが、採点の結果として、第三位は、反種差別主義の歴史的起源を第一次文献に基づいて正確に押さえた上で、〈種〉概念そのものの規定の曖昧さから反種差別主義がそもそも理論としては致命的な欠陥をもっていることを論証したレポート。
第二位は、動物倫理における「許し pardon 」は誰が誰に対してするものなのかという問いを、スピノザ、ヘーゲル、カント、ジャンケレヴィッチ、デリダを参照しつつ、それが容易に解き得ぬ難問である所以を的確に指摘したレポート。
そして、圧倒的第一位は、植物の個体性の概念規定が孕まざるを得ない曖昧さを手際鮮やかに際立たたせたレポート。一方で、西洋中世精神史における「同一の」植物の名称の多様性が植物の個体性問題にそれ固有の困難をもたらしていることを示し、他方で、日本人研究者たちによる最先端の分子生態学の知見から、群生する植物を個体として特定することは「実体的」「一義的」には困難で、「時間的」な経過のなかで暫定的にしか可能ではないことを指摘した上で、近世哲学史におけるライプニッツの植物の個体性論が両者の知見を総合しうる可能性をもった観点を提示していることを示している。
二月六日・七日の日仏合同ゼミで三人に会うとき、本人たちに直接賛辞を捧げたい。