手元には五冊の『紫式部日記』校注本・訳注本がある。出版年順に、新潮日本古典集成版(山本利達校注、1980年)、新日本古典文学大系版(伊藤博校注、1989年)、新編日本古典文学全集版(中野幸一校注、1994年)、講談社学術文庫版(宮崎莊平訳注、2002年(上下二巻)、合本新版、2023年)、角川ソフィア文庫版(山本淳子訳注、2010年)。最後の山本淳子版は解説が大変充実していて、中古文学史の授業で『紫式部日記』を取り上げていたときにはよく参照したし、今も五冊の中で一番よく手に取る。
今回『紫式部日記』を読み直すにあたって、上掲五書の解説から紫式部の生い立ち・人となり・才能について言及している箇所を順次摘録しておきたい。それらの言及の間に見られる微妙な表現の違いから式部の複雑な性格が浮かび上がってくると思うからである。
出版年順にしたがって新潮日本古典集成版から始めよう。
母は早く世を去ったらしく、日記にも歌集にも、母にふれた記事が全くない。
幼くして母を失った彼女は、姉と親しんだが、姉も若くして亡くなって後は、妹を失った親しい人と姉妹の約束をして慕いあう娘時代をもった。また、物語が好きで、物語について意見を同じくする友人を求めた。この物語への傾倒と意見の交換は、後に『源氏物語』を創作する心を豊かに養ったことであろう。
彼女はとても聡明で、漢学者の父が、弟惟規に漢籍を教えるのを傍で聞いて、惟規より先に覚え、父は、この子が男の子であったらと残念がるほどであった。そして、宮仕えに出た時、中宮に『白氏文集』の楽府を進講するほどに漢籍に対する素養は深かった。彼女は、漢籍によって得た人間のとらえ方や、文学的表現法を『源氏物語』に十分生かし、物語の文学性を高めた。
彼女は、文学ばかりでなく、音楽にも秀でていたようである。彼女に箏の琴を習いたいという人がいたし、『源氏物語』の中に、音楽に関するすぐれた描写が多いのも、音楽に対する才能の豊かさによるのであろう。
長徳二年(九九六)の夏、紫式部は、父と共に琵琶湖の西岸を辿りつつ越前に下った。姉妹の約束をした人は肥前へ下った。慕い合った者同士の遠い別れであった。
二十歳近く年上ですでに多くの妻子がある藤原宣孝からの度重なる求婚を受け、紫式部は結婚を考えるようになる。長徳三年の冬、父に別れ、琵琶湖の東岸を経て帰京した。一年余りの地方の生活と旅は、彼女にとっては地方の人と生活を知る貴重な体験となったろう。
長徳四年の冬、宣孝と結婚したと考えられる。二人の仲はむつまじい時をもった。そして一女賢子が生まれた。後に後冷泉天皇の乳母となった大貳三位である。他に何人も妻のあることとて、夫の夜離れの寂しさを味わう日もあった。それを伝える歌が『紫式部集』にいくつかある。
結婚してわずか三年足らずで、幼い子を形見として、夫宣孝を疫病で失う。聡明で、勝気な明るささえもっていた彼女の心にも大へんな打撃で、自分をこの上なく不運なものと思い、この世を住みづらい世―憂き世―と思うようになった。こんな救いがたい心に包まれながら、本来好きだった物語の創作に憂悶を晴らすようになったようである。『源氏物語』は、この寡居生活の中から生まれたと考えられている。