内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

紫式部の生涯(四)

2024-01-29 13:55:05 | 読游摘録

 新日本古典文学大系版の解説からの摘録を続ける。若干表現を補ったり、簡略化あるいは省略したりしたところがあるが、細部に関わることなのでいちいち断らない。新潮日本古典集成版の解説の記述と重なる点ももちろんあるが、それぞれに専門研究者としてご自身の解釈を交えて解説されているので、話題としての繰り返しを避けずに引用する。

紫式部の父為時は花山天皇の東宮時代、貞元二年(九七七)の読書始に副侍読をつとめ、儒学を以て天子に仕える方途に活路を求めようとした。

そのころの為時は長男惟規に「書」(漢籍)を伝授していたが、傍で聞いていた式部の方が「あやしきまで聡」き理解力を示したので、式部に向かって「口惜しう。男子にて持たらぬこそ幸なかりけれ」と、為時はつねに嘆いたという。紫式部日記にただ一か所書きとめられたこの少女期の出来事は、式部の精神の原核を窺わせるものとして注視される。男顔負けの卓抜した素質を一流の文人たる父に認められたことは、みずからの才識への不抜の自身を培ったであろうが、「女」として生まれついたがゆえにその素質を伸ばし実社会で発露する方途を奪われ、父をして嘆かせねばならぬ口惜しさ。父の口惜しさは長ずるに及んで式部自身の口惜しさとして増幅していったに相違ない。それは一方で女の宿世の凝視を促し、他方実社会での効用を保証されぬままに自己目的的に才識を錬成せしめ、窓の内にのみ跼蹐する当時の女性一般のありようをこえて、歴史や政治の動向への活眼を培う力源となったと思しい。やがてそれらはみずから構築した物語世界にうちこめられて、一条天皇をして「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」と驚嘆せしめるに至る。また源氏物語がさまざまな個性・境遇の女性たちを登場させて、女の生の可能性をあくことなく問い続けていることも想起されよう。

花山天皇の即位とともに、いっとき家運再興を願った為時だが、わずか二年たらずで崩壊した花山朝と運命を共にし、その後散位として「家旧く門閑かにして謁客无」き荒れ屋敷に逼塞を余儀なくされる。この家は延喜の御代文雅の拠点として時めいた中納言兼輔の堤第であったとおぼしく、ここに雅正・その妻の定方娘・為時と住み続け、式部もまた京極大路の東、染殿の真向かいに位置する鴨川べりのこの旧邸に住んでいた公算が大きい。

父の逼塞時代は式部の娘ざかりの頃に重なる。時代の流れから半ば取り残された如き家の「あやしう黒みすすけたる曹司」で、積み上げられた漢籍・物語・古歌集などに心をひそめ、箏の琴や琵琶に鬱を散じ、少数の心の通う友との交流や時々の寺社詣でなどを心やりとしていたようだが、やがてたった一人の姉を失い、妹を亡くした友と「姉妹」の約束をして慰め合ったりしていた様子が家集から浮かび上がる。

その家集をひもといて目につくのは、異性との恋の贈答歌が意外に少ないことである。ここから秘められた失恋体験を想定する論者もあるが、後に夫となった宣孝らしき男に朝顔の花につけて挑みかけるように歌を贈る大胆さは、恋に傷ついた女のそれとは思えない。男まさりの才識をそなえた聡明な娘に、同年配の男などは近寄りがたいものを感じたろう。