新潮日本古典集成版解説からの摘録を続ける。その叙述が最も信頼できるからでは必ずしもない。一九八〇年以降に専門研究者たちによって提示された紫式部の「生涯」の一つのヴァージョンという以上の意味はない。むしろそのことの意味を、昨日言及した五冊の校注本・訳注本の解説をすべて紹介した上で考えるための一材料と考えられたい。
寛弘二年(一〇〇五)または寛弘三年の十二月二十九日、紫式部は中宮彰子の所へ出仕することになった。『源氏物語』の作者として、その才能を認められてのことであったろう。
寛弘五年十一月一日、土御門殿で行われた敦成親王の五十日の祝の席で、当時歌人第一人者だった藤原公任が、「このわたりに、わかむらさきやさぶらふ」と、「若紫」の巻に関係した発言をしている。これは、公任が、少なくとも「若紫」の巻を読んでいたことを示す。また、『源氏物語』を女房が読むのを聞いて、「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ」と賞賛したともいう。本来、物語は女性の慰み物であったが、『源氏物語』は男性にも読者をもつほどに価値を認められていたのであった。
自分の仕事の価値を認められ、出仕することになっても、身の憂さは消えなかった。しかも、出仕前には経験しなかったつらさを味わわねばならなかった。紫式部は、人に顔を見られることがとても恥ずかしかったが、宮仕えにおいては、その恥ずかしさに始終堪えねばならなかった。また、宮仕えにおいては、女同士で、いやなことを言ったりしたりする者がいる。「うきこと」に堪えかねて里に籠ったこともある。しかし、小少将の君、宰相の君、大納言の君のような親しい同僚もでき、慰められもした。
中宮の立派さや道長一族の栄華に感心することもあったが、心底からは宮仕えになじむことはできなかった。それほど「身のうさ」は心にしみついていた。その心の救いを次第に誦経生活に求めようと思うようになった。しかし、出家をすることまでは考えられなかった。出家したなら、現世への未練や執着があってはならないと自己を律する潔癖さが、出家への志向をためらわせたのである。
紫式部は長和三年(一〇一四)に亡くなったらしい。