二日間で摘録を終えるはずだった新日本古典文学大系版の解説にはまだ書き留めておきたい事柄がいくつかあるので、今日と明日も同解説からの摘録を続ける。
長徳ニ年(九九六)、父為時が越前の国守に任じられ、紫式部は父とともに任地に下向する。式部にとってこれは生まれてはじめての長旅であり、京以外に住まうのもはじめてのことであった。この一年余りの越前国府(現、福井県武生市)での生活を式部がどう受け止めたかについては研究者の間でも意見が分かれている。
伊藤博氏は、「未知の風土に接した式部も、雪に閉ざされた国府の生活の侘しさには辟易したらしい」と推測しているが、未知の土地の発見とそこでの生活習慣の観察は、式部の人間観察力をより豊かなものにした貴重な経験だったと想像する研究者もいる。
式部が宣孝と結婚したのは、式部二十七歳、宣孝四十七、八歳位と推定されている。十代で結婚する例も多いこの当時、遅すぎる結婚というべきで、しかもこれが初婚であれば、その相手が親子ほども年のはなれているのも何故だか気になるところである。
伊藤博氏は、この点について、「源氏物語に光源氏対紫上、対秋好中宮、対玉鬘とくり返される養父娘=恋人関係の基本構図や、母亡き式部が父為時の膝下でその鍾愛を受けて生育した事情などを勘案して、式部の情念に根づよい父親恋着的心性(ファーザー・コンプレックス)」を想定している。
それはともかく、遅く訪れた女としての幸せの日々は、夫宣孝のあっけない病死によって、二年余りで終わりを告げる。「少女時代「男子」でないことで父を嘆かせた己が身は、いま「女」として「妻」として生きる方途からもはじき出された。みずからの宿世をみつめ、身の憂さを嘆く歌文がこのあたりから際立ってくる。」
「傷心と無為の日々を支えたものは「はかなき物語などにつけて」同好の士と音信を交わすことであったらしい。やがてみずから物語を書きつむぎ、仮構の世界に生きることに代えがたい喜びを見いだしてゆく。ここではみずから「男子」に変じ、王統の貴公子となって宮廷政治社会で活躍することも、さまざまな女人に託してその生の可能性をたしかめることも可能なのだ。少女時代から親炙した漢籍・物語・和歌等々が創作のゆたかな源泉となって、かの女を取り巻く閉塞的な現実から別次元のことばの宇宙へ、主体的な作り手として転生させてくれる。」