今日の午前中は、修士一年の演習「近現代思想」の筆記試験の答案の採点をいたしておりました(今週は採点に明け暮れた一週間でしたが、これは教師稼業をやっていれば仕方のないことですね)。昼過ぎには無事終了し、学生たちにはメールですぐに結果を知らせました。これで、六月の追試の採点を除けば、今年度の答案採点はすべて終了いたしました(ちょっとホッとしてもいいですか?)。
あっ、でも、これは私だけのことで、まだまだ山のような答案と格闘しなければならない同僚たちがいることを忘れるわけにはいきません。それに、四月中の学内閉鎖のあおりで延期になった試験も多く、その分成績提出期限までの期間が短くなってしまい、皆バタバタいたしております(誰を恨めばいいのか……)。
さて、今回の修士の筆記試験問題は、実のところは「単なる」翻訳です。今学期読んできた三木清『人生論ノート』の中の「人間の条件について」というエッセイの一節を訳せ、という、めっちゃ「易しい」問題です。このエッセイは、全体で3400字ほどで、新潮文庫版で六頁です。その中の六分の一弱の550字ほど、真ん中あたりの二段落を訳させました。以下がその出題箇所です。
虚無が人間の条件或いは人間の条件であるものの条件であるところから、人生は形成であるということが従ってくる。自己は形成力であり、人間は形成されたものであるというのみではない、世界も形成されたものとして初めて人間的生命にとって現実的に環境の意味をもつことができるのである。生命はみずから形として外に形を作り、物に形を与えることによって自己に形を与える。かような形成は人間の条件が虚無であることによって可能である。
世界は要素に分解され、人間もこの要素的世界のうちへ分解され、そして要素と要素との間には関係が認められ、要素そのものも関係に分解されてしまうことができるであろう。この関係はいくつかの法則において定式化することができるであろう。しかしかような世界においては生命は成立することができない。何故であるか。生命は抽象的な法則でなく、単なる関係でも、関係の和でも積でもなく、生命は形であり、しかるにかような世界においては形というものは考えられないからである。形成は何処か他のところから、即ち虚無から考えられねばならぬ。形成はつねに虚無からの形成である。形の成立も、形と形との関係も、形から形への変化もただ虚無を根柢として理解することができる。そこに形というものの本質的な特徴がある。
学生たちには、試験の一ヶ月以上前に、「人間の条件について」から出題するから全部読んでおくように言ってありましたから、彼らにとって未知のテキストであったわけではありません。とはいえ、授業では一切触れませんでしたから、内容の理解はそれこそ自力でしなくてはなりませんでした。
結果としては、やはりこちらが思っていた通りのところでほとんど全員が躓いてくれていました。どんなところで彼らが躓いたと思われますか。
テキストの内容そのものの難しさはひとまず措きます。だって、ちょっと意地悪な言い方をすれば、日本の大学の哲学科の修士の学生だって、このテキストちゃんと読みきれるどうか、怪しいものじゃないですか。この点、身贔屓との誹りを覚悟で申し上げますと、同年齢で比較という前提に立てば、自分の頭で考える力という点では、フランス人学生の方が勝っていますね(頑張れ、ニッポンのガクセイたちよ!)。
それはさておき、彼らが躓いたところは、まず、第一文の「従ってくる」です。確かに、この用語法は、現代語ではまずもうありえません。「帰結として導かれる」という意味で使われていますね。こうちゃんと訳せていたのは十人中一人だけ。第二文は、構文的にとても手強い。特に、この文中の「初めて」をちゃんと理解して訳せていた学生は皆無(トホホ……)。
第二段落では、ちょっと意外に思われるかも知れませんが、「生命は抽象的な法則でなく」で始まる文中の「関係の和でも積でもなく」のところでほとんど全員が躓いていました。一見なんでもないところですよね。おそらく日本人なら、たとえ小学生でも、高学年になれば、「関係の」が「和」と「積」の両方を限定していることは自明のことではないでしょうか。
ところが、それが「見えない」学生が少なくないのです。「関係の和」と「積」というふうに切り離してしまうのです。そんなの、ありえん、と思うでしょ。これは比較的単純な例ですが、限定する語句がどこまで支配するかは、しばしば内容により、形式的には決定できないことが日本語では多いのです。だから、こんなところで彼らはよく躓いてしまうのです。
こういうところをなんなく訳せる学生は、一つには、日本語能力がそれだけ高いということですが、もう一つには、基本的に論理的思考力がしっかり身についているということですね。文法的には、「関係の和」と「積」とを切り離すことは不可能ではないとしても、文脈的にそれはありえないと思考できれば、ここはさらっと訳せるところです。こういうところで、内容をちゃんと理解して訳しているか、単に字面を追っているだけかがわかってしまいます。
さて、ここまでお読みくださって、この三木の文章を自分も仏訳してみようかというお気持ちをお持ちになられた方はいらっしゃいますか。もし、その気になられたら、どうぞ私宛にご高訳をいつでもお送りください。
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