内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

修士一年「近現代思想」筆記試験問題 ― 三木清「人間の条件について」を仏訳してストラスブールに行こう!

2018-05-11 20:42:23 | 講義の余白から

 今日の午前中は、修士一年の演習「近現代思想」の筆記試験の答案の採点をいたしておりました(今週は採点に明け暮れた一週間でしたが、これは教師稼業をやっていれば仕方のないことですね)。昼過ぎには無事終了し、学生たちにはメールですぐに結果を知らせました。これで、六月の追試の採点を除けば、今年度の答案採点はすべて終了いたしました(ちょっとホッとしてもいいですか?)。
 あっ、でも、これは私だけのことで、まだまだ山のような答案と格闘しなければならない同僚たちがいることを忘れるわけにはいきません。それに、四月中の学内閉鎖のあおりで延期になった試験も多く、その分成績提出期限までの期間が短くなってしまい、皆バタバタいたしております(誰を恨めばいいのか……)。
 さて、今回の修士の筆記試験問題は、実のところは「単なる」翻訳です。今学期読んできた三木清『人生論ノート』の中の「人間の条件について」というエッセイの一節を訳せ、という、めっちゃ「易しい」問題です。このエッセイは、全体で3400字ほどで、新潮文庫版で六頁です。その中の六分の一弱の550字ほど、真ん中あたりの二段落を訳させました。以下がその出題箇所です。

 虚無が人間の条件或いは人間の条件であるものの条件であるところから、人生は形成であるということが従ってくる。自己は形成力であり、人間は形成されたものであるというのみではない、世界も形成されたものとして初めて人間的生命にとって現実的に環境の意味をもつことができるのである。生命はみずから形として外に形を作り、物に形を与えることによって自己に形を与える。かような形成は人間の条件が虚無であることによって可能である。
 世界は要素に分解され、人間もこの要素的世界のうちへ分解され、そして要素と要素との間には関係が認められ、要素そのものも関係に分解されてしまうことができるであろう。この関係はいくつかの法則において定式化することができるであろう。しかしかような世界においては生命は成立することができない。何故であるか。生命は抽象的な法則でなく、単なる関係でも、関係の和でも積でもなく、生命は形であり、しかるにかような世界においては形というものは考えられないからである。形成は何処か他のところから、即ち虚無から考えられねばならぬ。形成はつねに虚無からの形成である。形の成立も、形と形との関係も、形から形への変化もただ虚無を根柢として理解することができる。そこに形というものの本質的な特徴がある。

 学生たちには、試験の一ヶ月以上前に、「人間の条件について」から出題するから全部読んでおくように言ってありましたから、彼らにとって未知のテキストであったわけではありません。とはいえ、授業では一切触れませんでしたから、内容の理解はそれこそ自力でしなくてはなりませんでした。
 結果としては、やはりこちらが思っていた通りのところでほとんど全員が躓いてくれていました。どんなところで彼らが躓いたと思われますか。
 テキストの内容そのものの難しさはひとまず措きます。だって、ちょっと意地悪な言い方をすれば、日本の大学の哲学科の修士の学生だって、このテキストちゃんと読みきれるどうか、怪しいものじゃないですか。この点、身贔屓との誹りを覚悟で申し上げますと、同年齢で比較という前提に立てば、自分の頭で考える力という点では、フランス人学生の方が勝っていますね(頑張れ、ニッポンのガクセイたちよ!)。
 それはさておき、彼らが躓いたところは、まず、第一文の「従ってくる」です。確かに、この用語法は、現代語ではまずもうありえません。「帰結として導かれる」という意味で使われていますね。こうちゃんと訳せていたのは十人中一人だけ。第二文は、構文的にとても手強い。特に、この文中の「初めて」をちゃんと理解して訳せていた学生は皆無(トホホ……)。
 第二段落では、ちょっと意外に思われるかも知れませんが、「生命は抽象的な法則でなく」で始まる文中の「関係の和でも積でもなく」のところでほとんど全員が躓いていました。一見なんでもないところですよね。おそらく日本人なら、たとえ小学生でも、高学年になれば、「関係の」が「和」と「積」の両方を限定していることは自明のことではないでしょうか。
 ところが、それが「見えない」学生が少なくないのです。「関係の和」と「積」というふうに切り離してしまうのです。そんなの、ありえん、と思うでしょ。これは比較的単純な例ですが、限定する語句がどこまで支配するかは、しばしば内容により、形式的には決定できないことが日本語では多いのです。だから、こんなところで彼らはよく躓いてしまうのです。
 こういうところをなんなく訳せる学生は、一つには、日本語能力がそれだけ高いということですが、もう一つには、基本的に論理的思考力がしっかり身についているということですね。文法的には、「関係の和」と「積」とを切り離すことは不可能ではないとしても、文脈的にそれはありえないと思考できれば、ここはさらっと訳せるところです。こういうところで、内容をちゃんと理解して訳しているか、単に字面を追っているだけかがわかってしまいます。
 さて、ここまでお読みくださって、この三木の文章を自分も仏訳してみようかというお気持ちをお持ちになられた方はいらっしゃいますか。もし、その気になられたら、どうぞ私宛にご高訳をいつでもお送りください。
 優秀な訳をなさった方たちの中から、「厳正な」抽選の上で、一名様を、ヨーロッパの首都と謳われるこの美しいストラスブールの街に、日本からの旅費・滞在費すべて自己負担という、普通ありえない「破格の」条件で、しかも滞在期間無制限で、ご招待いたします。奮ってご応募くださいね。

 












文学批評原理としての「もののあはれ」の射程とその限界 ― 近世文学史学期末試験問題

2018-05-10 21:23:22 | 講義の余白から

 今日は丸一日、昨日の午後に実施した近世文学史の学期末試験の採点をしていました。朝九時に始めて夕方五時過ぎに採点終了。すぐに結果を大学のイントラネットで学生たちに知らせました。
 答案は二十枚。小論文形式で、長さは、日本語に直せば、およそ1500字から2000字といったところでしょうか。
 答案そのものには赤ペンで数種の記号や下線を引くだけにして、用いた記号の意味は学生たちに採点結果と同時に公表します。点数とは別に、各答案について講評を書き、これもネットを通じて学生たちに知らせます。個人名は一切伏せ、学生番号だけで各自自分の答案の講評を知ることができるようにします。
 今回の試験問題は、大学封鎖のあおりを受けて四月中に二回も休講にせざるを得なかったこともあり、例年のように「ひねった」問題を出すことは差し控え、以下のようなごくありきたりの設問にしました。

 本居宣長の『紫文要領』『源氏物語玉の小櫛』に展開されている「もののあはれ」論に基づいて、以下の二つの問いに答えなさい。「もののあはれ」」とは何か。なぜ「もののあはれ」は文学にとって根本的価値でありうるのか。この二つの問いに答えた上で、宣長の文学理論について自分の意見を述べなさい。
 ただし、授業で取り上げた近現代の研究者あるいは著作家による宣長の「もののあはれ」論批判を参照した上で解答すること。

 全体的講評として言えることは、ほぼ全員、よく問題と格闘してくれていた、ということです。参考文献のどこかに書いてあることをそれこそ丸写ししたとしてもそれで一応は合格点がもらえるような「易しい」出題だったのですが、そういう安易な答案は一つもありませんでした。
 それに、似たりよったりの答案もまったくありませんでした。どの答案もそれぞれに学生たちの個性がよく出ていたのです。普段の授業の出席者は二十名前後ですから、誰と誰がいつも隣り合わせに座っているかはこちらもよく把握しています。もしそれらの仲良しグループごとに似通った答案があれば、一緒に準備したことは一目瞭然です。ところが、面白いことに、むしろそういう仲良したちの答案の間にこそ論点の違いが際立っていたのです。
 これはちょと穿ち過ぎかもしれませんが、彼らはおそらく一緒に試験勉強をしていて、その過程でお互いの意見の違いがはっきりしてきて、それが各自の答案に反映されていたのではないかと私は思っています。
 それはともかく、今回ほど答案を読んでいて愉しかったことはかつてありませんでした。「もののあはれ」とは何か、なぜそれが文学の自律的価値たりうるのか、という問いに対して、それぞれに真剣に向き合い、自分自身の頭と心で考えてくれたことが答案を読んでいてよくわかったからです。それに、二年生のはじめから見てきた彼らの知的成長もそこから読み取ることできて喜ばしくもありました。
 授業内容をよく咀嚼した上でバランスよく議論をまとめていた模範的な答案(君たちはいつもお利口さんだったね、でも、これからは自分の殻を破ろうとしてみてほしいな)、『紫文要領』『源氏物語玉の小櫛』を原文でしっかり読みこなし、独自の解釈を堂々と示してくれた答案(修士に来るんだよね、期待しているよ)、自分なりの仮説を出発点として手際よく概念分析を展開している答案(頭でっかちにならないように気をつけて。与えられたテキストを地道に読む訓練も忘れずに)、授業ではまったく触れなかった現代の専門家の日本語の論文まで参照していた答案(文学批評原理としての「もののあはれ」の二重の機能の指摘、お見事でした!)、永遠性を至上の価値とする西欧思想の中で育った自分には、「もののあはれ」論は正直よくわからないと率直に認めた上で、自分の個人的な体験から感情としての「もののあはれ」を理解しようと試みていた答案(昨年亡くなったお祖母さんの写真が思いもかけず自分に引き起こした感情についての話、読んでいてこっちもちょっと泣けてきたよ)等々。
 最初は試験のために勉強しているつもりだったのに、いつのまにかそんな枠を超えて問題そのものと向き合うことになってしまうような設問をいつも心掛けているつもりです。こちらのそのような意図に応えるかのような答案を今回の学部最後の期末試験で学生たちは書いてくれました。そんな彼らに私は心から感謝しています。












三木清『人生論ノート』と格闘してくれた学生たちのレポートを読む

2018-05-09 22:12:40 | 講義の余白から

 昨日今日と、修士一年生十人に課した学期末レポートを読み、採点していました。
 課題は、演習でその一部を読んだ三木清『人生論ノート』の二十三あるエッセイの中から自分で自由に一つエッセイを選び、その要旨をまず述べ、その上で自分の意見を述べなさい、という、形としてはごくオーソドックスなものでした。
 演習で取り上げたエッセイ「幸福について」「旅について」を選んでもよいとしたのですが、十人中、「旅について」を選んだのは三人(「幸福について」は皆無)、他の七人は演習ではまったく触れもしなかったエッセイを選んでいました。「死について」が三人、「孤独について」「嫉妬について」「成功について」「利己主義について」がそれぞれ一人。「旅について」を選んだ三人も、安易にそれを選んでのではなかったことはその優れた内容からよくわかりました。
 修士の演習では、原則、筆記試験とレポートとを課題とします。私は、レポートの形式について、細かな指示を与え、それを厳守することを要求します。全体の構成に関しては、頁数・表紙・詳細目次・脚注・文献表について、ページレイアウトに関しては、余白、行間、フォント等について、締切り二ヶ月以上前に詳細な説明書きを学生たちに送ります。これらがきちんと守れるかどうかも評価の対象になると彼らには明言します。本文の長さはA4で八枚に収めることを求めています。日本語に訳せば、一万字くらいということです。
 なぜ形式にこだわるかというと、こういう指示をきちんと守れるかどうかも、彼らの将来の職業生活のためには大切なことだからです。よほど飛び抜けて内容的に優れてでもいないかぎり、こういう指示を守れないことは、やはり否定的な評価の対象になるのが普通です。幸い、全員、指示はほぼ守ってくれました。
 ところが、締切り前日になって、どうしてもちょっと枚数超過しそうなのですがいいですかと聞いてきた学生が一人いました。それに対しては、「いいよ、書きたいだけ書きなさい」と答えました。それでは規定を守った学生たちに対してフェアではないではないかというご指摘もあるでしょう。でも、ここまで言ってくるにはそれだけの理由が彼にはあると私は受け止めました。
 その学生から届いたレポートを見ると、よほど書きたいことがたくさんあったのでしょうね、左右上下の余白を最小限にし、それこそ目一杯に書けるだけ書いてありました。その点では明らかにルール違反だったので、減点の対象になりますが、それを補って余りあるほどに内容はよかったのです。
 その学生は、「旅について」を選んだのですが、三木清の言いたいことをちゃんと理解した上で、そこに抜け落ちている論点を的確に指摘し、その点についてしっかりと論拠を示して批判を展開していました。
 その他の学生たちのレポートも、自分が選んだエッセイで取り上げられている問題に対して、それぞれちゃんと自分の問題として向き合い、自分で考えて書いてくれていました。それこそ私が望んでいたことでもありました。
 彼らのレポートの中で援用されていた主な哲学者・思想家・学者の名前をざっと挙げておくと、プラトン、セネカ、モンテーニュ、パスカル、ニーチェ、フロイト、ハイデガー、サルトル、レヴィ=ストロース等々。その他にも、それぞれ取り上げたテーマについて近現代の様々な著作家を引用していて、それらを読むのも愉しいことでした。
 三木清『人生論ノート』は、彼らの日本語能力からしたら、けっして易しいテキストではありません。ましてや、演習でまったく扱わなかったテキストを独力で読むことにはかなりの困難をともなったはずです。ところが、正直これはちょっと嬉しい誤算だったのですが、みんなテキストに本気でぶつかってくれていました。きっと、三木のテキストにそういう気にさせる何かがあるからなのでしょう。
 そういう意味では、演習のテキストとして『人生論ノート』を選んだことは間違いではなかったのかなと、学生たちのレポートを読み終えて、彼らへの感謝の気持ちとともに安堵しているところです。













引用の「ずれ」が誘ってくれる思索の漂泊の旅

2018-05-08 19:14:02 | 読游摘録

 昨日の記事でその冒頭の段落を引用した竹内整一著『日本思想の言葉 神、人、命、魂』(角川選書、2016年)の「花びらは散っても花は散らない」と題された節には、ジャンケレヴィッチの『死』(仲澤紀雄訳、みすず書房、1978年)からの引用がある。同じ箇所が『花びらは散る 花は散らない 無常の日本思想』にも引用されていて、引用箇所の論脈もほぼ同じである。

死は生きている存在のすべてを破壊するが、生きたという事実を無と化することができない。……われわれが事実性と呼ぶ、眼に見えず手に触れ得ない単純で形而上学的なこのなんだかわからないものだけが虚無化を免れる。

 中略された部分も含めて原文を引く。

La mort détruit le tout de l'être vivant, mais elle ne peut nihiliser le fait d'avoir vécu ; la mort réduit en poussière l'architecture psychosomatique de l'individu, mais la quoddité de la vie vécue survit dans ces ruines ; tout ce qui est de la nature de l'être est destructible, c'est-à-dire offre d'innombrables prises à la démolition, à la désagrégation, à la décomposition : seul ce je-ne-sais-quoi d'invisible et d'impalpable, de simple et de métaphysique que nous appelons quoddité échappe à la nihilisation (La mort, Flammarion, coll. « Champs essais », 1977 (1re édtion 1966), p. 458).

 この一節に示された事実的生の無化不可能性という考えは、ジャンケレヴィッチの哲学のライトモチーフの一つで、例えば、L’irréversible et la nostalgie(Flammarion, « Champs essais », 2011 (1re édtion 1974), p. 339, 仲澤紀雄訳『還らぬ時と郷愁』国文社、1994年)にも、その変奏の一つを読むことができる(この一節については、2013年8月5日の記事を参照されたし)。

Celui qui a été ne peut plus désormais ne pas avoir été : désormais ce fait mystérieux et profondément obscur d’avoir vécu est son viatique pour l’éternité.

存在した者はそれ以来もはや存在しなかったということはできない。それ以来、生きたという、この不可思議で奥深く冥暗な事実は、その者の永遠への路銀となる。(私訳)

 ジャンケレヴィッチからの引用は、どちらの場合も、一人の人が生きたという事実は、どうあってもなかったことにはできない、ということを言わんとしている。つまり、その言わんとするところは、昨日の記事で引用した金子大栄の言葉の趣旨とも竹内整一によるその解釈とも異なっている。
 しかし、私は竹内によるジャンケレヴィッチの引用の不適切さをここでとやかく言いたいのではない。むしろ、こうした引用の「ずれ」もまた読書の愉しみの一つだと思う。引用文をその原典にまで遡ると、引用者の意図とは異なった本来の文脈が見えてきて、それがまたこちらの思索を思わぬ方へと誘ってくれる。このような引用の「ずれ」から始まる思索の漂泊の旅も不亦樂乎。












「花びらは散っても花は散らない」― 悼みと弔いを通じての死者と生者との響存

2018-05-07 23:59:59 | 読游摘録

 今日の記事のタイトルは、金子大栄『歎異抄領解』(全人社、1949年)の中の言葉である。私はこの言葉を竹内整一の著作で去年知ったばかりである。金子大栄については、岩波文庫版『歎異抄』『教行信証』の校注者としてその名前を見かけたことがあるくらいで、その人と思想および著作については何も知るところはなかった。
 竹内整一は、複数の著作の中でこの金子の言葉を繰り返し引用している。この言葉をほぼそのままタイトルとした『花びらは散る 花は散らない 無常の日本思想』という著書さえある(角川選書、2011年刊)。その出版は東日本大震災直後のことだった。
 『日本思想の言葉 神、人、命、魂』(角川選書、2016年)の第四章にもこの言葉をタイトルとした節がある。そこには、この言葉を出発点として、生と死についての考察がジャンケレヴィッチや西田幾多郎など様々な著作家からの引用を織り交ぜながら展開されている。
 竹内によれば、金子自身は、この言葉について、あまり詳しく説明していない。それでも、この言葉の背景に、親鸞思想や広く仏教思想、さらには死者に対するある普遍的な考え方・感じ方のようなものを見て取ることができるという。

「花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ」とは、浄土真宗の僧であった金子大栄(1881-1976)の言葉である。人は死ぬことによって肉体的には消えても、その人の死をかなしみ、「いたみ」「とむらう」者がいるかぎり、その人の「花」は散らない。また逆に、その「花」は、「いたみ」「とむらう」者に、あたたかい生きるエネルギーを与えるという不思議な力をもっている。死者が「仏」になるとはそういうことである。

 私には竹内のこの説明が金子大栄の言葉の解釈として妥当なのかどうかはわからない。『歎異抄領解』の文脈に即して読めばその通りなのかも知れない。ただ、その文脈を離れて、この言葉だけを読んだだけでも、それは私に多くのことを考えさせる。
 個々の花びらは遅かれ早かれ散るほかはない。しかし、形あるものにおいて無限に繰り返される生滅を通じてこそ、花の「いのち」は生き続ける。年々去来する花を見て、私たちはそう覚知することができる。
 しかし、この「花」が人のことである場合、それこそ他人事ではありえない。それはまずもって、生者が死者を「いたむ」「とむらう」という具体的経験を通じて、「いのち」について真剣に考えさせられるとき、散らぬ「花」とは何か、という問いとして痛切に身に迫ってくる。言い換えれば、死者と生者との「響存」はいかにして可能か、という問いとして。













本来空における今有華の自覚 ― 花から花への蝶躍的現成論(四)

2018-05-06 17:40:24 | 哲学

 まず、「空華」巻の次の美しい一節を読んでみよう。

 まさにしるべし、空は一草なり、この空かならず華さく。百草に華さくがごとし。この道理を道取するとして、如来道は「空本無華」と道取するなり。「本無華」なりといへども、今有華なることは、桃李もかくのごとし、梅柳もかくのごとし。

 この引用中の「空本無華」は、『首楞厳経』を典拠としている。「空もとより華なし」と読み下す。同経では、眼病患者は空中に花の幻を見てしまうが、そこにはもともと花などないのだ、という意味で使われている。
 ところが、道元は、独自の思惟をそこから次のように展開する。
 確かに空は本来的には「本無華」だが、今ここに花がある。桃李も梅柳もそのようしてそこにそれとして在る。本来的には空であるからこそ、今ここにおいて或る花が或る形を取って咲くということが生起する。より端的に言えば、花が咲くという〈こと〉が起る。
 私は、道元の言葉を、華まさに空なる無ゆえにそこに有り、と言い換えてみたい。〈もの〉としての花はもとより幻に過ぎない。そのような実体はどこにもない。空に、〈もの〉は、本来的に、ない。ところが、その空において、花が咲くという〈こと〉が起る。
 この〈こと〉に、事・言・異の三重の意味を込めて私は使っている。咲くという事、「花」という言語化、花が空において他の諸事物から差異化されるという意味での異なり、という三重の意味である。この〈こと〉なりを、道元は、「現成」と呼ぶ。
 「華亦不曾生、花亦不曾滅」では、花を生滅の相の下にではなく、空相において覚知する。「花亦不曾花、空亦不曾空」では、諸物の非時間自己同一性を否定する。「今有華」では、花が端的にそれとして現成する。この三段階を経て、「花は花ではないから花である」〈こと〉に至る。
 花は年々去来。そのことになんの変わりもない。しかし、「花は花でないから花である」〈こと〉に至るとき、世界は各瞬間に面貌を一新しつつある〈こと〉が自覚される。













〈そのもの〉の探究という煩悩 ― 花から花への蝶躍的現成論(三)

2018-05-05 11:40:18 | 哲学

 昨日引用した『正法眼蔵』「空華」巻の文言の後半、「花亦不曾花、空亦不曾空」に移ろう。
 「花またかつて花ならず、空またかつて空ならず」とは、文字通りには、「花はけっして花ではない、空はけっして空ではない」と読める。これはいったいどういうことか。
 この部分を読むかぎりのこととして、少なくとも次の二つのことがまず指摘できる。
 一つは、花と空とが構文的に等値されていること。つまり、花に対して空により根本的な次元としての優位性は与えられていないということである。
 いま一つは、最初の「花」と二番目の「花」は同じものを指していない、二つの「空」についてもそれは同様、ということである。つまり、花であれ、空であれ、「花」という名は花ではなく、「空」という名は空ではない、ということである。
 ここまでは、ほぼ賴住光子『正法眼蔵入門』の解釈を簡略化して言い換えただけである。
 しかし、私はこの解釈に疑義を挟まずにはいられない。なぜなら、「花またかつて花ならず、空またかつて空ならず」は、万有の恒常的あるいは非時間的自己同一性を端的に否定していると読めるからである。したがって、上掲の解釈からの次のような展開に私は同意できない。

表現以前とは、つまり、言語化以前、分節化以前ということである。先述のように、仏教においては、存在とは意味付けられ表現されてはじめて存在となるということをふまえるならば、それは、存在以前ということができる。つまり、このような「空そのもの」の次元に立脚して、存在は成立しているのである。だから「花」は、つねに言語表現としての「花」にはおさまりきらずにはみ出していく。同様に、「解脱」において体得された「空そのもの」も、「空」という固定化された言語表現からはみ出す。この意味で、「花は花でない」「空は空でない」という言葉が正当性を持つ。

 「花」「空」という言葉による世界の分節化以前に、花そのもの、空そのものの次元などありえないはずである。言語表現におさまりきらない〈そのもの〉という実体性あるいは次元は、すべて言語化が生じさせる仮象あるいは幻想に過ぎないと考えるべきではないか。〈そのもの〉の探究こそ煩悩のなせる業ではないのか。〈そのもの〉性の想定という誤謬からの解放こそが「解脱」ではないのか。












幻花から存在の真実相へ ― 花から花への蝶躍的現成論(二)

2018-05-04 23:59:59 | 哲学

 「空華」とは、もと、眼病を患っている人が空中に見る幻の花の意。そこから転じて、仏教においては、通常、仏道の理をわきまえない人が、物事を実体化してとらえてしまった結果生じる幻であり、否定されるべき迷妄のことを指す。そして、仏道の道理を正しくわきまえれば、この幻の花は消えると教説されてきた。
 ところが、道元は『正法眼蔵』「空華」巻において、この語に独自の意味を与える。

仏祖の所乗は空華なるがゆゑに、仏世界および諸仏法、すなわちこれ空華なり。

 それまで、幻として否定的な意味でしか使われてこなかった「空華」という言葉に、存在の真実相という肯定的な意味を与える。存在とは本来的に空において在る、それを「空華」という。
 では、存在が空において在るとはどういうことか。

たとへば、華亦不曾生、花亦不曾滅なり。花亦不曾花、空亦不曾空の道理なり。

 「華またかつて生ぜず、花またかつて滅せず」、「花またかつて花ならず、空またかつて空ならず」の道理なり。つまり、「花は生じも滅しもしない。花は花ではなく、空は空ではない、」という道理だという。
 この文言の前半「華亦不曾生、花亦不曾滅」は、何が言いたいのか。花はけっして生じも滅しもしない、とは、どういうことか。
 もとより、花は咲き、花は散る。一切の存在は生滅変化をまぬがれることができない、無常なものであるとは、仏教の基本原理で、道元もそれに依拠している。

しかし、同時に道元は、無常であるとは、個々の存在に着目した場合にいえることであり、それを「空」次元においてみるならば、生滅はないという。仮に立てられた個に即していうならば、それについては、生じるとか滅するとかいうことはできるが、さらに、それを空の次元に還元した場合、そこにあるのは個物ではなく関係の総体であり、個物に即さないから、生じるとか滅するとかいうこと自体もできなくなるのである。(賴住光子『正法眼蔵入門』角川ソフィア文庫)

 一言にして言えば、花を生滅相において見ず、空相において覚知する、となろうか。













花は花でないから花である ― 花から花への蝶躍的現成論(一)

2018-05-03 20:28:47 | 哲学

 今日の記事のタイトルは、賴住光子著『正法眼蔵入門』(角川ソフィア文庫、2014年、電子書籍版2015年)からお借りした。
 本書第四章「「さとり」と修行」中の「「空華」という存在」と題された第三節末尾に出て来る表現である。昨秋以来、日本語の書籍に関しては特に、電子書籍を頻繁に利用するようなっているが、本書もつい一昨日購入したばかりである。日頃電子書籍は大変重宝しているが、出典の頁数を示せないのが難点である。
 それはさておき、さっそく本題に入ろう。
 日常生活の中で、「花!」と一言叫ぶときとは、どんなときだろうか。それは、例えば、思いもかけぬところに花が咲いているのに気づいてちょっと驚いたとき、あるいは、墓参りの際の供花のために予め買っておくべきだった花を買い忘れたことに気づいたときなどだろう。もちろん、他にいくらでも違った状況を想像することができる。
 「これは花だ」と言うときはどんなときであろうか。これもいろいろ想像できるが、暗喩は除外するとして、例えば、一見して、花なのか葉なのか、はたまた実なのか、わからずに戸惑っているとき、誰かがそう断定するときとか。この場合、それが正しいかどうかは、ここでの問題ではない。
 「花は花だ」、これはどうだろう。こんな同語反復、どんなときに使うだろう。例えば、あんまり綺麗じゃない花を見て、でもまあ、これも花には違いないよねって認めるときとか。
 しかし、ここまでは、花が花として立ち現れるという事柄に疑いを差し挟むことなしに、さしたる思考上の困難もなく、理解できる経験ばかりである。
 ところが、花はどうして花として認識されるのだろうか、という問いを立てるに至ると、にわかに話がややこしくなってくる。さあ、ここからがテツガクのモンダイだ。
 「花は花ではない」とか宣われると、ちょっと驚くかもしれない。しかし、花と見えているものも、実は花ではない、とか、「花」という一般概念は花ではない、とか、ハナを花と呼ぶのは一つの約束事に過ぎない、とか、こういう類の話を飽きもせずに様々な意匠とともに古代から延々と繰り返して来たのがテツガク史なわけである。
 今日では、認知科学の目覚ましい進歩によって、認識論におけるテツガクの肩身は狭くなる一方である。しかし、そうであるからこそ、認知科学の知見をひとまず脇に退けて、誰にでも文法的には容易に理解できるはずの簡単な表現を手掛かりに、テツガク的に思考を深めていくことを試みてみよう。
 というわけで、今日の記事の表題に掲げた、「花は花でないから花である」という一文が登場するわけである。
 明日の記事から、上掲の賴住書を「導師」として『正法眼蔵』「空華」巻のテクストに触れながら、「花は花でないから花である」というテーゼが意味するところについて考えてみよう。
 例によって、事前のプランは何もない。空(から)である。その空におけるその日その日の思考の現成に身を任せる。ちょうど花から花へとひらひらと移り行く蝶のように。「花から花への蝶躍的現成論」と題する所以である。












「もののあはれ」と「神ながらの道」との交叉点はどこにあるか ― 今年度最終講義を終えて

2018-05-02 23:49:47 | 講義の余白から

 今日の記事のタイトルを見ただけで、ま~た小難しいテツガク的屁理屈話かよって、即座にこの頁を閉じようとされた方も少ないくないことでしょう。というか、そういう方にはこの一文さえ読んでいただけなかったことでしょう。
 でも、ここまで読んでくださった方には、申し上げます。どうかご安心ください、今日の記事は、今日の午後の出来事についてちょっと呟くだけすから、と。
 今日の午後の近世日本文学史が今年度最終講義でした。予告どおり、本居宣長の「もののあはれ」論について約1時間半話しました。その間、2回、同じ女子学生が質問してくれて、どちらもとても良い質問だったんですね。おかげで、その質問に答えることで今日の講義の要点を強調することができました。
 『源氏物語玉の小櫛』の一節を注解するかたちで「もののあはれ」について説明していたところ、月や花を見て「ああなんと美しい」と自ずと思う心が「もののあはれ」を知る心だという趣旨の一節を読んでいると、その女子学生がやおら手を上げて、「先生、月も花も見ることができない盲人は「もののあはれ」を感得することができないってことになりますか」と質問したんですね。
 それに対して、おおよそ次のように答えました。
 確かに、「もののあはれ」に関して宣長が挙げている例は視覚に偏っている。聴覚・嗅覚・触覚・味覚については例がない。視覚では、対象はある距離を於いて現われ、それに対して見る側は感情を抱く。では、距離がおかれた対象に対して、それが引き起こす感情、およびその対象が「もののあはれ」なのだろうか。こういう二元論的図式は、しかし、「もののあはれ」の理解にとって障害にしかならなない。これは私の捉え方に過ぎないが、「もののあはれ」は、感覚におけるコミュニオン(communion)の経験なのだ。だから、特に視覚に限定される経験ではない。
 こう答えた後、「もののあはれ」についての説明を再開すると、ものの数分もたたないうちに、同じ学生が、「先生、「もの」ってなんですか。漠然としていて、何のことだかよくわかんないんですけど」と、二本目のクリーンヒット的質問をしてくれました。
 この質問は、こちらの読みどおりで、待ってましたとばかりに、古典語としての「もの」一般の定義と、『源氏物語』固有の用法について、大野晋説に依拠して説明しました。
 講義が終わり、ああこれで学生を前にして話すのも今年度はこれで終わりだなぁ、と、少しホッとしつつ教室を出ると、質問した学生とは別の学生に呼び止められました。他の3人の学生と一緒に近づいてきて、「先生、「もののあはれ」って全然わかんないですけど」と聞いてくるじゃありませんか。
 さすがに講義内容をもう一度全部繰り返すわけにもいかず、要点を繰り返すにとどめ、その上で、『古事記伝』における「古道」の文献学的研究と『源氏物語』研究における「もののあはれ」論との関係をどう考えるべきかについてヒントを与え、「あとは自分で考えなさい。来週の試験の問題はもう先週のヴァカンス中にメールで伝えてあるんだしね。これが学部生である君たちに出す最後の問題だよ。難しいことは認めるよ。だから、一週間、しっかり準備しておいで」と捨て台詞を吐き、まだ狐につままれたような顔をしている彼らをその場に残し、プレハブオンボロ校舎を後にしました。
 学生諸君、自分たちの知力・感受性・想像力を総動員して、脳髄の最後の一滴まで絞り尽くすようにして、一つの問題を考え抜いてみよ。