昨日の記事で取り上げた屈折型承認欲求(KSY)に対して、何か有効な療法はあるのでしょうか。
この問題について考えるにあたって、つい先週モスクワで三日間に渡って開催されたアメリカン・サイコロジカル・ソサイエティ世界大会でのウクライナ精神科学研究所の気鋭の若手研究者ソーリャ・キマッテマッシャロー准教授のきわめて注目すべき研究発表「KSYへの現象学的アプローチの試み」が参考になります。ただ、この発表に対しては、当日、イスラエル超心理学高等研究院の重鎮ソンナコート・アリエヘンドリックス名誉教授から発表の結論に関して看過しえない疑義が提示されたことを申し添えておきます(団体名・人名はすべて架空です、念のため)。
KSYは、対処療法で簡単に症状を持続的に沈静化できる単純型承認欲求(TSY)と違って、慢性化しやすく、かつ強迫性障害・妄想性障害等の合併症を発症しやすいという症例研究結果が世界各地で報告されています。KSYへの対処療法の効果はいずれもきわめて限定的で、すぐに再発してしまいます。それらはすべて一時的な代替充足しかもたらさず、自己承認欲求そのものは充足されないままだからです。
したがって、KSYに対しては、より根本的なアプローチが求められることになります。そのためには、まず、当人がその都度周りの他者たちからの注目を要求する事柄をよく観察し、個々の事柄の特徴に惑わされずに、それらの事柄の間の関連性さらには共通点を見極める必要があります。それらすべてに当人がこだわる原因を特定するためです。
次に、KSYの随伴現象にも注意する必要があります。KSYが発現するとき、ある集団内での自己承認欲求が充足されていないわけですから、多くの場合、当人はその集団内で疎外感を懐いています。ただ、疎外感を懐いてれば必ずKSYが発現するというわけではありません。疎外される理由あるいは原因が自分自身にあると当人に自覚されている場合は、疎外感は内向し、自己嫌悪に苦しめられたり、我が身の不運あるいは無能を嘆いたりすることになります。さらに深刻化すると、うつ状態に陥ることもあります。
疎外の原因が自己以外にある(あるいは、本人がそう信じ込んでいる)場合、その疎外の原因(あるいは、本人がそう信じ込んでいる対象)に対して、攻撃性をもった反応あるいは行動が現われます。しかし、これだけでKSYと見なすことはできません。なぜなら、疎外の原因が取り除かれれば疎外感は解消しますので、そこには屈折性が認められないからです。
KSYは、自分は自分本来の価値に見合った評価を社会あるいは周囲から受けておらず、不当な扱いを受けているという不遇感に取り憑かれ、しかしその原因が自分で特定できない状態にあるときに発現しやすくなります。自分は所属する社会集団から不当な扱いを受けている、それゆえ現在のような境遇にある、自己以外にその不遇の原因はなくてはならないと確信しているが、しかしその原因が特定できないとき、攻撃衝動は自分の身近にある対象へと向かいがちです。このとき屈折性が発生します。
しかし、その攻撃性が正当化され得ないと本人が認める場合は、その攻撃性は持続せず、KSYは一過性のものにとどまります。ただ、疎外感・不遇感そのものはまったく解消されていないわけですから、またすぐに別の対象に向かって攻撃衝動は発現してしまいます。
KSYが慢性化しやすいのは、代替攻撃対象が一般にその社会で不正と見なされているものに向うときです。その場合、その攻撃そのものが社会的に「正しい」行為だと認められていると本人は確信しているわけですから、自分の「正義」を疑わなくなります。しかし、もともとが不正を正すことそのことが本人の行動原理ではなく、しかもそのことに本人はまったく気づいていませんから、多くの場合、不正糾弾への異常なまでの執着と糾弾対象への過度な攻撃性が観察されます。KSYにしばしば見られるこのような他者への攻撃性と寛容性の欠如は、結果として、本人の社会生活をさらに困難なものにしてしまいます。
KSY自体はもちろん精神疾患ではありません。むしろ、不平等と格差が深刻化する現代の競争社会では、ある一定の割合で発生せざるを得ない社会心理的現象と見なすべきでしょう。それを解消する特効薬があるわけでもありません。自己責任だと言って、本人自身にすべてを負わせることも、何の解決ももたらしません。
結局、次のような月並みな暫定的結論にさしあたりとどめざるを得ません。
KSYが社会生活に支障をきたさないようにするためには、一方では、周囲が注意深く継続的に本人の話を聴き、疎外感をいくらかでも緩和させつつ、あるいは少なくとも深刻化に歯止めをかけ、他方では、本人が承認欲求充足のための具体的手立てを自分で見つけることを手助けしていくほかはないのではないでしょうか。
ご清聴、ありがとうございました。
今日の記事は、一昨日昨日の記事ような与太話ではなく、それらよりは幾分か真面目な調子で書きます。そして、内容そのものにはちょっと深刻な部分もあることを予めおことわりしておきます。
さて、昨日の記事で取り上げたような無神経な振る舞いはもう世間のいたるところに溢れかえってるわけですが、このような憂慮すべき事態の打開をさらに困難にしているシンドロームが近年世界を密かに蝕みつつあるというショッキングな報告が、つい先日、ジャパン・サイコロジカル・ソサイエティのストラスブール支部の年次総会で斯界の権威K教授によって発表されました(団体名・人名は架空です、念のため)。
その報告の概要を謹んでここに発表させていただきます。
さて、いつのころからか、「承認欲求」という言葉が世間で流通するようになりましたね。ある特定の他者たちによって、あるいは自分が帰属する集団または社会において、自分の価値を認めてもらいたいという欲求、とでも定義できるでしょうか。
この欲求がまったくない人というのも考えにくいことですから、すべての人に多かれ少なかれ共通する、その意味で、きわめて「人間的な」欲求である、と言っていいのではないでしょうか。もちろん、この欲求が強すぎる人は、まわりの人たちから「ウザっ」て思われる行動を起こしがちですから、それらの人たちから嫌われたくなければ、日頃の振る舞いにはよく注意する必要がありますね。
しかし、今日ご報告申し上げたいのは、私が「屈折型承認欲求」(以下、KSYと略す)と名づけることを提唱している、承認欲求のある特定のタイプです。
どんなタイプか、手短にご説明いたしましょう。
一般に、承認欲求は、自己自身を認めてもらいたいという欲求なわけですが、この屈折型の場合、本人もそれと気づかないうちに、自己自身と他のものとがすり替えられ、そのすり替えられたものへの注目を周囲に強要するという形をとって現われます。
一つ具体例を挙げましょう。あるグループの中で、「これは問題だ」とあることについて騒ぎ立てます。そして、グループの他の成員たちにその問題の共有を強制しようとします。その問題がいかに重大で、自分はそれについてどれだけ真剣に考え、原因をとことん究明し、どうやって有効な対策を打ち出したかを延々と周囲に語るのです。
KSYの特徴は、本人に自覚症状がないことです。本人は、自己自身とすり替えられた問題のことをそれこそ「正しく」「真摯に」考えている(と信じ込んでいる)わけですから、それがまさか自己自身に対して偽装された自己承認欲求だとはまったく気づかないのです。仮に本人に向かって直接そう指摘しても、当然のことですが、まったく認めようとはしません。
KSYに陥りやすいのは、正義感が人一倍強く、しかも自分の考えが周囲から正当な評価を受けていないという漠然としたルサンチマンを日頃から感じている人たちです。他方、このような人たちは、かなりの自信家で、自分を突き放して冷静に厳しく自己評価するのが不得手なことが多いという調査結果も出ております。
単純型承認欲求(以下、TSYと略す)の場合、煎じ詰めれば、よく幼児たちに観察される「見て見て私のこと!」というような、精神的に未成熟な自己中心性の遅発性発現に過ぎませんから、周りがちょっと配慮して、いつもより多めに「いいね!」してあげれば、それであらかた充足されます。ですから、周囲への影響も限定的です。
ところが、KSYの場合、問題解決への協力も周りに強制しようとしますし、問題が大ごとになればなるほど本人の承認欲求充足度も高まるので、話が拗れるケースも多く、周囲の迷惑もそれだけ大きくなります。解決にも時間がそれだけ余計にかかります。
本人もなぜ自分がそこまでその問題にこだわるのか、そのほんとうの原因がわかっていませんから、仮に当の問題が一定の解決を見たとしても、自己承認欲求そのものが完全に充足されたわけではないので、意識のより深層にルサンチマンが抑圧されたまま慢性化する傾向にあります。
さて、このようにちょっとやっかいな屈折性をもったKSYに対する何か有効な療法・対処法はあるのでしょうか。それについては明日の記事で考えてみたいと思います。
昨日の記事の末尾でお約束したことを舌の根も乾かぬうちに反故にして、今日もまた「よくそんなくだらないこと考えられるよねぇー」ってなお話です。ですから、ここまで読んで「アホくさ」と思われた方にあられましては、ここで弊記事のページをお閉じになられますようお願い申し上げます。
さて、世間では、他者に対して配慮ができない人に対して、「なんて無神経なの、信じられなーい」と、お怒りの方も少なくないことと拝察申し上げます。
しかし、これは私がかねがね愚考していることなのでありますが、このような非難は不当であります。だって、相手は神経がないんですよ、だから感じようがないってことでしょ。
にもかかわらず、このように相手を非難することは、蛙に向かって「てめぇ、何で臍ねーんだよ」と難癖つけることと同じくらい不当なことなのであります。
こんな不当な非難を受けた蛙の立場にもなってみてください。「そ、そんなぁ、もともとないのに……」って、凄くショックを受けて、思いつめたあまり、古池に飛び込み自殺しようとするかもしれませんよ。
同様に不当な非難の例を二三挙げますと、ニシキヘビに向かって、「クネクネしてねーで、なんで一直線に進めねーんだよ、男だろ!」とか、イノシシに向かって「猪突猛進してんじゃねーよ。なんでヘアピンカーブちゃんと曲がれねーんだよ。そんなことでF 1レーサーになれると思ってんのかよ」とか、ライオンに向かって、「なんでそんな面デケーんだよ。今は小顔じゃなきゃ、ゲーノー界で生きていけねえんだよ」とか。
もう一歩踏み込んで、別の例を挙げますと、現在のジャパンのプライム・ミニスターに向かって、「何でさっさとやめねーんだよ」というのも、ほぼ同じようなものです。
では、どうすればいいのでしょうか。残念ながら、どうしようもないですね。せめてできることと言えば、神経と良識と判断力がある一般市民が、忍び難きを忍び、耐え難きを耐え、情況全体を冷静に俯瞰し、理性に基づいた判断を原則とし、その場その場では迅速にプラグマティックな選択を実行していくことくらいでしょうか。
最初に申し上げます。今日の記事の内容は実にくだらないです。ですので、この一行をお読みになっただけでページを閉じられることを推奨いたします。
さて、それはともかく、今日の記事のタイトルをご覧になって、皆さま「?」と思われたことと拝察申し上げます。それもそのはず、この記事を書いている当人が今さっき思いついたにすぎない略記号ですから。
なにかの疫病かって? 医学的な意味ではそうではありません。ただ、社会生活上は、これってけっこうあるし、ちょっとやれやれって感じなんだよなあっていう現象です。何だと思います?
「JTN」とは、「冗談が通じない」(Jôdan ga Tsûji Nai)ってことです。
わかりやすい例を挙げるとですね、私がなにかに憧れているかのように遠くを見つめるウルウルした眼差しで(キモっ! とか言うな)、「イマのジャパン(オー、クール!)のプライム・ミニスターのアベちゃんてぇ、カケモンダイとかさ、ケンポーカイセイとかさ、サイコーにカッケーよねぇ」とか言ったとしますよね(バカかお前って、今思ったでしょ)。それに対してですね、「えっ、それってどうなんですか。今の日本の政治の状況は深刻ですよ。このままだと日本は駄目になると私は思います」とか、真顔で反応されたとしましょう。こっちとしては、「えええ~、そんな意味で言ったんじゃないのに」って、もちろん心では仰天してるわけですが、こういう相手にはそもそも言語の二重性が通用しませんから、「ああ~、そうだよネェ~、ホント深刻だよね。ニッポンちょっとなんとかしないといけないよねぇ」とか、テキトーに答えて、「あっ、そうだ、この後約束が入ってたんだ、ゴメン、じゃあねー」とか言って、這々の体で逃げ出すしかありません。
すごい遠回しな言い方なんですけど、この類のことが昨日ダブルヘッダーであって(しかも私、二試合ともフル出場だったんですよ)、さすがにちょっと疲れています(金はいらないから、休みをくれ!)。
でも、明日からまた、気を取り直して、おフランスで「清く正しく美しく」生きるヤマトダマシイをもったニホンジンの私に戻りますので、ヨロシクオネガイシマース。
「戦争と哲学者」というテーマは、それだけで叢書になるくらいの大きな主題です。昨日までの四回連続の記事は、そのほんの小さなサンプルに過ぎません。今回は、三木清のことを取り上げた記事がきっかけで、半ば行きがかり上少しこのテーマに触れただけで、今はこれ以上展開させるだけの準備はありません。そもそも時間がありません(誰か、「同情するなら、時間をくれ!」 古っとか言わないこと)。
まあでも、こういういい加減な切り上げ方が許されるところが(というか、自分で勝手に自分を許しているだけのことですけれど)ブログのいいところじゃありませんか。もし、続きを期待されていた方がいらっしゃったとすれば(多分いないと思うけれど)、ごめんなさいね。誠に勝手な言い分でございますが、あとはご自分でご研究ください。
さて、レーヴィットの『共同存在の現象学』からは、その巻末の熊野純彦による「解説」ばかりを引用させてもらって、肝心の本体の方にはまだまったく触れていませんでした。ほんの挨拶程度ですが、少しだけ触れておきましょう。
本書は、ハイデガーを指導教授として、その師の主著『存在と時間』が出版された一九二七年に提出された教授資格請求論文が元になっています。そこには、「師に対する共感と反撥が交錯」しています(「解説」435頁)。ハイデガーの『存在と時間』に対する根本的な批判を含んでいる本書は、それ自体が本格的な研究の対象となりえます。残念ながら、それはまったく私自身の手にはあまることで、その中から「例外的にロマンティックな一節」(「解説」)を引用するに今はとどめざるをえません。
共同世界がもっとも明示的なかたちで私の世界と関係づけられるのは、共同世界がひとりの特定の他者と、つまり《きみ》と合致し、ひとりの〈きみ〉が〈私〉にとっての全世界をそのうちに包摂してしまう場合である。その場合にのみ、フォイエルバッハにならって「世界すなわち〈きみ〉」と語ることができる。《きみ》がそのとき〈私〉にとって代表するのは、たんに共同世界のすべてではない。全世界である。(60頁)
「世界すわなち〈きみ〉」なんて、ハイデガーには書けなかった(若く美しかった愛人ハンナの耳元では囁いたかもしれぬが)。間柄の倫理学の和辻もこうは言わなかった(多分愛妻にも言わなかっただろうなぁ)。「世界すなわち〈きみ〉」の哲学、どなたか引き継がれてはいかがでしょうか。
フライブルクでは、一九一六年以来、H・リッケルトの後任として、フッサールが正教授として哲学を講じていた。その地にレーヴィットがやってきたのは一九一九年春のことである。
当時のフッサールの学問に対する姿勢について、レーヴィットはとても印象深い回想を書き残している。『共同存在の現象学』巻末の熊野純彦による「解説」から、その箇所をそのままここに引用しておきたい。
ひとつには、演習におけるフッサーが、高額紙幣によってではなく、つねに「小銭」で、つまり現象の直観に照らして吟味された、控え目なことばで答えるように指導していた、というエピソードである。もうひとつは、フランス軍がフライブルクを占領するという風聞が流れ、講義室に学生のすがたもまばらとなったそのときにも、この「最小のものの、偉大な探究者」は「学問研究のひたむきな真剣さは、この地上のなにものによってもかき乱されることなどできない」といわんばかりに、すこしもかわらず淡々と地味な講義をつづけた、という挿話にほかならない。(446頁)
学問的探究の姿勢がそのまま倫理的態度でありえたこの一人の偉大な哲学者の姿は、当時フライブルクでフッサールの指導を受けていた山内得立にも深い印象を与えたことであろう。
一九一七年、二十歳のカール・レーヴィットは、イタリアでの俘虜生活から「祖国」ドイツに復員し、ミュンヘン大学に籍を置く。そこで、哲学と並行して生物学を学ぶ。当時のドイツの大学では、特にフンボルト的精神を基本理念としていた哲学部では、哲学と並行してもう一つの学問分野を履修することが強く推奨されていた。今日でも、ドイツの大学システムでは、二つの異なった分野を同時に履修することが制度的に可能であるのも、その精神を受け継いでのことなのであろう。
レーヴィットの場合、単に並行履修が推奨されていたからという理由だけでたまたま生物学を選んだわけではない。二年後、フライブルク大学に転籍した後も、生物学を履修し続けている。
ミュンヘン大学では、植物学者カール・フォン・ゲッベルの講義に出席していたが、フライブルク大学では、一九三五年にノーベル生理・医学賞を受賞することになる発生学者ハンス・シュペーマンの指導を受けている。しかも、きわめて優秀は成績を収めている。
フライブルクでレーヴィットはハイデガーと出逢い、師と仰ぐことになる。この出逢いがレーヴィットを哲学へと決定的に方向づけたのである。ところが、興味深いことに、一九二三年八月二三日付のレーヴィット宛の書簡で、ハイデガーは、自分の最初の弟子の一人に向かって、むしろ生物学の道に進むべきではないかと問いかけている。
それに対して、それまで進路の選択に迷っていた弟子は、シュペーマンの指導下で胚の「堕胎」についての実験を続けることは喜んで続けるが、それは哲学において自分が「出産」することを妨げないかぎりにおいてであると答えている。この答えが哲学者レーヴィットの「産声」となる。
勇敢な志願兵であった青年レーヴィットは、たちまちに軍功をあげ、階級を上げる。一九一五年五月、イタリアがオーストリアに宣戦すると、レーヴィットの所属する連隊はオーストリア・イタリア国境へと移動する。そこで兵員三〇名からなる一小隊の隊長となる。後の回想によれば、前線生活全体を通じて、人種の違いを兵士たちからも将校団からも感じたことはなかったという。
しかし、イタリア前線で重傷を負い、その年の八月には戦争捕虜となってしまう。その後、一九一七年後半まで、約二年間、イタリアで俘虜としての生活を送ることになる。この俘虜生活が、その後レーヴィットが生涯を通じてもち続けることになるイタリアへの愛を懐かせる。
レーヴィットにとって、イタリアのイタリアたる所以は、いわばその生得的な人間らしさ(humanitas)、人間的な弱さをそれとして本能的に受け入れる受容性にある。それは、レーヴィットにとって、ドイツにおいては、およそ無視されていた感性であった。
『共同存在の現象学』(岩波文庫)巻末の熊野純彦による解説から、このイタリア的なものへの愛に関わる一節を、レーヴィットからの引用も含めて、引こう。
後年のレーヴィットの見るところでは、「一八年ものあいだファシズムに鍛えられたあとでさえ、ローマでも、いたるところのちいさな町村でも、イタリア人はだれも北方においてよりも人間なのであって、個人の自由を尊重し、また人間的な弱さをも受け入れる、天賦の才能を喪っていない。ドイツ人はこの人間的弱さを追放しようとしているのである」(『私の生活』)。レーヴィットそのひとのうちにも、人間性の悪を見つめつづける強靭な精神と、人間存在の弱さを受容しようとする寛容な精神が、となりあわせて棲みついている。(442-443頁)。
十八歳から二十歳にかけてのイタリアでの俘虜としての経験がレーヴィットの哲学の情感的基底を育んだと言っては言い過ぎだろうか。
二十世紀哲学史において、ある一人の哲学者が戦争期をどこでどう生きたか、あるいは哲学者として認められる前の青少年期に戦争をどこでどう生きたかを知ることは、その哲学者がどのような命運の下に己の哲学を形成していったかを理解するために、しばしば決定的な重要性をもっている。
二つの世界大戦の両方あるいはいずれかを、何歳ごろ、どこで、どのような立場で経験したかによって、哲学者たちをある一定の座標軸において「マッピング」することは、二十世紀哲学史の理解に資するところがあるだろう。
カール・レーヴィットは、一八九七年、南ドイツ、バイエルン地方の古都ミュンヘンに生まれた。母マルガレーテはアリーア系、父ヴィルヘルムは、チェコスロヴァキア中央部、モラヴィア出身のユダヤ人であるが、ドイツを祖国とし、ミュンヘンを故郷とした。
一九一四年七月、第一次世界大戦が勃発したとき、高校生だったレーヴィットは、ミュンヘン郊外のシュタルンベルク湖畔で家族とヴァカンスを過ごしていた。その三ヶ月後、十七歳のレーヴィットは志願兵として陸軍に入隊する。
後年、一九三〇年代後半に東北大学で教鞭を取っている間に執筆された自伝的文章でレーヴィットは当時のことを回想している。
同世代の他の多くの青年たちと同様、己自身に至る途は日常の規範ときっぱりと袂を分かつことによってしか開かれないと、すでにニーチェの影響下にあった十七歳のレーヴィットは確信していた。それゆえ、ある種の熱狂のうちに志願した。なぜなら、未来の「共同存在の現象学」の哲学者にとって、その戦争は、前世紀の決定的な幕引きを意味したばかりではなく、一つの時代の終焉を告げるものであり、そのことは、とりもなおさず、ヨーロッパ文化の新たな幕開けにほかならなかったからである。
三木清とカール・レーヴィットとは、どちらも一八九七年生まれである。誕生日は、三木が一月五日、レーヴィットが一月九日。わずか四日ちがいである。
この二人が初めて出逢ったのは、一九二四年マールブルクでのことである。前年の一九二三年、ゲッティンゲンからマールブルクに転任したハイデガーに師事すべく、三木は最初の留学地であるハイデルベルクからマールブルクに居を移す。その翌年一九二四年、ハイデガーの最初の高弟の一人であったレーヴィットがミュンヘンからマールブルクに師のあとを追って移ってくる。
三木は、マールブルクに落ち着くと、すぐにハイデガーを訪ねている。そのときのことは、『読書と人生』に収められた「ハイデッゲル教授の想い出」に印象深く描かれている。
同じく『読書と人生』に収められた名編「読書遍歴」の中で、三木は、ハイデガーの紹介でレーヴィットからフッサールの『論理学研究』の講釈をしてもらうことになったと記している。
イタリア語の原著 Una sobria inquietudine(Giangiacomo Feltrinelli Editore, Milan, Italie)が二〇〇四年、その仏訳 Karl Löwith et la philosophie. Une sobre inquiétude(Editions Payot & Rivages) が二〇一三年に出版された Enrico Donaggio によるレーヴィットの知的伝記の中には « Sensei Löwith » と題された節(仏訳で十頁ほど)がある(折角「センセイ」という日本語を使うなら、語順を逆にしてほしかったが)。
その節には、レーヴィットが日本の若き哲学者たちと一九二〇年代前半にマールブルクで出逢った経緯、そして、その十年余り後の一九三六年に、やはりかつてマールブルクで面識があり、当時京都帝国大学教授だった九鬼周造の尽力によって、ファシズムと反ユダヤ主義が席巻するヨーロッパを逃れ、レーヴィットが東北大学に哲学教授として赴任することになった経緯などが略述されている。
ただ、三木とレーヴィットとの出逢いに関しては、著者の Enrico Donaggio は、おそらく自身で日本語の文献を読むだけの能力がないのであろう、三木の「読書遍歴」さえ参照していない。それどころか、日本人名の姓名の区別も覚束ないようで、索引では、西田、九鬼、三木については、彼らの名と姓が逆さになっている(つまり、それぞれ、KITARÔ、SHÛZÔ、KIYOSHIが名字になってしまっている)。巻末の謝辞には、十名近い日本人(その大半はご高名な方々である)も挙げられているのだが。もちろん、こんな些末なことは、西洋の哲学者の知的伝記にとっては「瑕瑾」に過ぎない。
レーヴィットの人と思想については、岩波文庫から二〇〇八年に刊行された『共同存在の現象学』巻末の訳者熊野純彦(彼の名前も上掲書の謝辞に見える)による懇切丁寧な解説によってその概略を知ることができる。しかし、その中には、三木とレーヴィットとの出逢いのことは一言も触れられていない。もちろん、こんな些細な欠落も、レーヴィットの著書の解説として、なんら非難に値することではない。
これらのことは措き、私がここで言いたいことは、一九二四年にハイデガーを介してマールブルクで邂逅した三木とレーヴィットという同年生まれの哲学者それぞれの哲学と命運を交叉させるようにして読むことによって、二十世紀前半の哲学史について一つの新しい読み筋を浮かび上がらせることができるだろう、ということである。
ここ十年ほど、欧米では、日本の哲学を研究テーマとする若手研究者が目に見えて増えている。誠に慶賀のいたりである。しかし、日本語の原典もろくに読めないくせに日本の哲学者について喋々と語る安易さがまだ目立つ。そのような輩が得意気に語る浮ついた「概念的」比較など、正直、聞くに耐えない。
文献学的手続きをしっかり踏まえ、第一次資料で史実を裏付けるという地道な作業を厭わず、おのれ自身を「歴史に書き込む」主体的な方法論を身につけた本格的な研究の登場を期待せずにはいられない。