旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

午後はボーヌへ

2015-06-23 23:34:52 | フランス
ディジョンから南へ四十五分ほどでボーヌの街がみえてくる駐車場から、ガイドさんと待ち合わせのマルシュ・ウ・ヴァンまではすぐちかくなのに道に迷った。その間に見えてくる町並みが面白すぎるのもあって(^^)

遠回りして、1433年に建設された「ボーヌ施療院」の前に出る。
突き当りの建物がマルシュ・ウ・ヴァンである。

その名の通り、ここはワイン蔵。
ブルゴーニュの銘酒をいろいろ楽しみながら見学させてくれる。
入場券代わりにこれをもらうのが嬉しい。

これはワインの色を見るための器。
細長いくぼみで白ワイン、丸いくぼみで赤ワインの色を見るということになっている。

地下に入っていくと、こんな風に何十種というワインが貯蔵されている
そのうちから選ばれた何種類かを試飲できるのだ。

入場券は、下のように四段階に分かれている。

★試飲できるワインの数とグレードで値段が違う
○デギュスタシオン・トラディショナル~六種類、最上はプルミエ・クリュまでテイスト出来る~12ユーロ
○デギュスタシオン・プレステージ~九種類、~16ユーロ
○デギュスタシオン・グランクリュ①~九種類+グラン・クリュ一種類~22ユーロ
○デギュスタシオン・グランクリュ②~九種類+グラン・クリュ二種類~26ユーロ


ブルゴーニュワインは世界のワインの中のたった0.5%にすぎないのだそうだ。
その中のまた10%程度がプルミエ・クリュ(一級)、グラン・クリュは1%程度、高値になる訳だ。

一階部分にはアート・ギャラリーも併設されていた

***すぐとなりにある「オスピス・ドゥ・ボーヌ」を見学。
中庭が印象的な美しさ
★★★1433年に開設された、日本語で「ボーヌ施療院」と訳される施設は、病院というとちょっとちがうかもしれない。
ここが開設された時代は英仏百年戦争にあたり、ちまたには戦火と飢餓があふれていた。
病気にならずとも、食べるのに困り健康を害する人たちが大勢居たから「施療院」を開設する意味は大きかった。
ベッドルームがここ三十三のベッドに「二人ずつ」暖めあって寝かされた。当時は珍しいことではなく、別の街では「三人ずつ」というのもあった、とガイドさん。
栄養のある食事と清潔な寝床、これを提供する事で、困窮したボーヌ市民を助けていたのだ。

施設を開設したのは、ブルゴーニュ公国の宰相だったニコラ・ロランと、三人目の妻ギゴン
このリアルなポートレートは、礼拝堂の祭壇画が閉まった時の左右の扉↴

日曜日にだけひらかれて、極彩色の「最後の審判」が拝めるという趣向。
フランドルの画家ファン・デル・ウェイデンによる、まごうことなきマスターピース。
現在では両方の面を同時に見られるように、下のように展示してある↴
※この祭壇画については⇒こちらにもう少し書きました


ルーブル美術館には「ニコラ・ロランの聖母」という作品があり、ウェイデンに何度もその姿を画かせていたのを知っていた。

妻のギゴンについての逸話を初めて知った。
五十五歳の時、二十八歳年下のギゴンを三度目の妻としたニコラは、彼女を「私の星」と形容して愛し、その言葉を意味するデザインを施療院の礼拝堂床タイルにしていたとは。
これが礼拝堂のもともと主祭壇がおかれていた場所
英語のONLYは、フランス語でSUELE(スゥーリュ)

周囲を「SUELE ★」で囲み、中にニコラのNとギゴンのGを配しているのである。

1462年にニコラが八十六歳で亡くなると、ギゴンは亡き夫への追慕を別のデザインにしてタピスリーに残している。
それがこのタピスリー
ギゴンの紋章がひとつとなり、
「ひとつだけの(孤独な)星」と書かれている
このタピスリーは、ブルゴーニュワインの祭典として有名な「栄光の三日間」の時に張り出される一枚だそうだ。

ギゴンの墓は礼拝堂の祭壇前にある

****

施療院は、たった四十年前までこの場所で現役で機能していた
薬局や厨房にもわりに新しい施設が導入されていたが、現在の展示は約百年前の雰囲気を再現している
こちら薬局
新しい病室は川の上に増設されていた

*****かつて使用されていたタスト・ヴァン

******
近くのノートルダム教会へ。12世紀の「黒い聖母」

かつてのブルゴーニュ公の館の一部、ロマネスクな建物

「この扉は地下に通じていて、かつてのローマの城壁が見られるのよ」

*******
ボーヌのバス駐車場へ行く道で、市街の地下から流れ出してくる小川をみつけた。そうか、さっき施療院の地下を流れていたのはこれだったんだ

ディジョンへの帰路はブドウ畑の中をゆく

コート・ドール(黄金の丘)と呼ばれるブルゴーニュワインの名産地がつづいている。

*******
夕食はホテルのダイニング、きのう到着した時にメニューを見ていろいろ質問してみて、良さそうなレストランだと思ったので。
小松がいちばん食べたかったのは「ウフ・ブルゴーニュ」~ブルゴーニュワインで煮込んだ半熟卵、キノコはじめ野菜も加えられている。


名産の「ブフ・ブルゴーニュ」もはずせないだろう

海老のミント・リゾットというのも、名前から想像するよりずっとおいしかった









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午前中ディジョンを見学~サン・ベニーニュ地下聖堂の印象的なロマネスク空間

2015-06-23 06:22:37 | フランス
昨夜の雨はすっきりとあがり、青空の六月。
ディジョン駅から出ると旧市街入口にあたるダルシー広場のギョーム門ここからリベルタ大通りが旧公爵宮殿まで歩行者用の贅沢な散歩道。かつての公国を構成していた町々の旗が掲げられている。

ディジョンは内陸に位置しているが、フランスを貫く三つの大河の上流に位置しているのが利点。すなわち大西洋へのルワール川、地中海へのローヌ川、北海へのセーヌ川。
この紋章の街は分水嶺にあたる場所にある故なのだそうだ、なるほど
ディジョンの名産のひとつ、マスタード。その老舗マイユ

六月の終わりは卒業の季節。はじけた学生たちがディジョンの街を大騒ぎしながら練り歩くのに出くわす(^^)


この大通りから自動車が一掃されたのは2012年にトラムが開通してからのこと

**
昨夜もちょっと訪れた旧公爵宮殿。今は半分が役所で半分がミュージアムになっている。ひと目でヴェルサイユ宮殿の正面玄関を思い出させる。なのに、それをぶち壊すように後ろににょっきり突き出しているのが「フィリップ・ル・ボンの塔」。

「ヴェルサイユの建築家マンサールはあの塔を壊そうとしたのだけれど、ルイ14世が『ブルゴーニュの歴史ゆえ残せ』と命じて、このようなかたちになったのよ」
やっぱり地元のガイドさんのお話があると、より面白くなる。

ミュージアムを説明してもらう時間がほしいところだが、今日は午後にボーヌへ行くスケジュールにしているので、ちと足りません。
次回は(いつ?)もっとゆっくりちゃんと説明していただく時間つくらねば。

★サン・ベニーニュ聖堂の地下礼拝堂
短いディジョン観光の間に強烈な印象をあたえてくれたのが、このロマネスクの地下室だった。よくあるゴシックの外観内部⇒右奥の階段が10時に開いてすぐに降りてゆくと、そこには10世紀の空間がひろがっていた。


古代の埋葬地。そこに残されていた御棺を壊そうとした人物の夢枕に立った聖人が「サン・ベニーニュ」とされて、それを中心にしてつくられた教会。
「それはたぶん後付のお話しでしょうね。「ベニーニュ」という名前自体が「ベーネ=善き事」という言葉からきているだけのようだから。」と地元ガイドさんの談。
物語は想像であっても、建築というのは現実に存在する。1002年にこの地下聖堂も含む巨大な僧院を建設させたのはカタロニアのオリバという司教だったそうだ。

古代的な円形の空間をとりまく円柱は、内陣八本、外陣十六本。あわせて二十四本というのは、「黙示録」の第四章に出てくる「玉座をとりまく二十四人の長老」をあらわしているそうな。こういう解説は現地フランス人ガイドさんからでないとなかなかきけない。だが、この空間を理解するためには必要な情報である。

柱頭のほとんどにはなんの彫刻もない。ただひとつに、この「祈る人」とされる人物が刻まれている⇒
「もとはこれらの柱頭にきっとこういう像があったのでしょうね?」と質問すると、「定説では未完でもともとなかった、とされているけれど、私は納得できないのよね」との答え。ふむ、小松もそう感じます。なぜなら、他にのこされた彫刻の完成度がぽつんぽつんと不自然に配置されていること。

西暦1270年に地上の建物が倒壊した後も使用され続けたが、フランス革命時に破壊され、約半世紀忘れ去れたてものを1850年ごろがれきを取り除いて再建された。
その時にどのような状態だったのかは分かっていないのだ。

サン・ベニーニュの御棺があった空間その周囲をとりまく南イタリアでよくみられるコズマーティ様式に似た色大理石の床はオリジナルの様子を感じさせてくれる⇒

この場所を見ることができただけでも、ディジョンを訪れた価値があった。
このサン・ベニーニュ聖堂のすぐちかくにあるサン・フィリベール聖堂のロマネスクの塔も目に付いた
★Saint-Philibert
あきらかなロマネスクの形状にゴシック的なとげとげの装飾がくっついている。「入れますか?」とガイドさんに訊ねたが、今はクローズしているという。しかし、この教会の面白いストーリーをきかせてくれた。
1103年にはすでに教会があったことが記録されているが、現在見える建物は1137年の大火の後のもの。
フランス革命時1795年には軍馬の厩舎となり、内部の装飾はほとんどなくなった。
1825年には道路を通すために一番奥の主祭壇の礼拝堂とその横に突き出していた二つの礼拝堂が破壊された。
「その跡がこれ」とおしえてくれた。言われてはじめて気付く、ロマネスク聖堂の特徴的なアプス部分の円形が地面に画かれている↴

この破壊によって、ロマネスクの鐘楼は倒壊する危険もあったので取り壊されそうになったという。
残されてほんとによかった。

その後、肉の貯蔵庫として使われていたが、塩漬けの塩が建物の土台部分を侵食している事が判明し、金属の補強がほどこされた。
現在でも安全上一般には解放していないのだそうだ。

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