旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ビルバオのおいしい午後

2017-04-06 19:05:28 | スペイン

グッゲンハイム美術館を出てイパラギーレ通りを歩きながらふりかえる↓

ホテルへの道を歩いていると、交通規制にあたった。ちょうど今日はバスクを走る自転車レースの最終日。サンセバスチャンを出て175キロを走り、ゴールがビルバオなのだ。もうすぐ到着というグッドタイミング。せっかくだからゴール直前を見ていきましょう↓五百メートル先がゴール↓

頭上を報道のヘリコプターが飛び始めると・・・すごいスピード!↓

 一度ホテルへもどって、夕食へ。タパスをいろいろとって楽しみましょ(^^)↓

ハムはどこでもはずれがない

↓ワインはバスクの若い発泡白ワインTXAKOLI(チャコリ)を↓

 二本目はリオハの赤にしましたが↓

デザートに、今日のガイドさんが話していたバスクのお菓子「カロリーナ」を探す。どこのお菓子屋さんも復活祭の卵型チョコを置いている。たまに、ピカチュー型も↓

メレンゲを盛り上げてチョコでコーティングしてあるというと・・・あ、これか↓

いっしょにサンチャゴのケーキも→ ポルトガルのこれも→みんなで楽しみました。

 

 

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ビルバオ旧市街とグッゲンハイム美術館

2017-04-06 17:00:03 | スペイン

ゲルニカから三十分ほどでビルバオへもどってきた。

西暦1300年に、それまで漁村だったビルバオをビスカヤ公の街としたディエゴ・ロペス五世の像↓

この広場でバスを降りた↓

ネルビオン川が蛇行する場所につくられた旧市街が橋の向こうに見えてきた。アリアガ広場に建てられた劇場がある↓

アリアガとはパリでも活躍した若い音楽家の名前、夭折したので「バスクのモーツァルト」と呼ばれているのだと、ガイドさんが言った↓

ふりかえると19世紀から20世紀初めアールヌーボーの様式でつくられた駅↓

写真左端に見える塔もその少し後にできたアールデコ調。長くビルバオでいちばん高い建造物だったのだそうだ↓

旧市街の細い道へ入る↓

お土産店に飾られていたバスクの大きな旗↓「EUSKADI」とは、バスク語でバスクを指す言葉↓

お土産屋さんのショーウィンドーには民族スポーツの「ペロタ」をする像↓「ペロタ」とはバスク語でボールのことを指す。

↓「きれいな図書館があるんですよ。さっきの劇場をつくったのと同じひとがつくったもの。ちょっと見ていきませんか?」

とガイドさんがさそってくれた↓なにげない普通の空間だが居心地良さそう↓

路地の向こうにサンチアゴ教会が見えてきた↓

道には巡礼路をあらわす印→

「最初につくられた旧市街は並列する七つの道からできている」と資料で読んでいたのが、歩いてみると実感できた。

ビルバオは西暦1300年当時の計画都市だったのだ。ディエゴ・ロペス五世(アロ家)は、合理的な都市造りを目指していたのかも。

劇場のところまでもどり、グッゲンハイム美術館までトラムに乗る事にした。少人数だからこういうことも出来る↓切符は一回券1ユーロ50セント↓

停留所には次のトラムが何分後にくるかも表示される最新の設備がある。乗車してみると、車内がとても明るい↓

右に見える川に、カラトラバ設計の橋が見えてきた↓ビルバオは街のいたるところでモダンな建築が目につく。

トラムを降りて→いちどグッゲンハイム美術館と逆に歩き、美術館が見晴らせる橋にでる。パノラマ風景↓銀色にもりあがったのがグッゲンハイム美術館↓

この写真を撮影した橋は、大学の本館と図書館を結んでいる↓下の写真で橋の向こうに見えているのが大学本館↓おもしろ橋でしょう(^^)↓歩いて楽しい↓

図書館は、下の写真で左側に見えている建物↓ 印象的にそびえている塔は電力会社のものだそうだが、現代のビルバオでいちばん高いものになる↓

さぁ、いよいよグッゲンハイム美術館へ↓

★グッゲンハイム美術館は今年で開館二十周年をむかえる。1983年に街を襲った大水害の後、この場所にあった古いドックをネルビオン川河口に移動させ、そこにそれまでにない美術館を建設することにした。

すでにニューヨークとヴェネチアに美術館をつくっていたアメリカ人の大富豪グッゲンハイムに声をかけた。 グッゲンハイムというファミリーはもともとドイツ系のユダヤ人で、19世紀にアメリカに移住して鉱山開発で財を成してきた。同じく鉱山で栄えたビルバオを再生させる計画にも興味があったのかもしれない。 

美術館は数人の建築家へのコンペの結果、フランク・ゲイリーが担当することになった。この時イソザキも参加していた、のだそうだ。※今回の旅ではガリシアのア・コルーニャにあるイソザキの建築も見られるのが楽しみ

チタンの薄いパネルで覆われた姿が印象的↓むこうに見える赤いアーチは、グッゲンハイム美術館会館十周年を記念して付け加えられた。橋自体は美術館計画以前からここにあったが、この赤いアーチが加わることによって、調和した↓

↓手前に見えるピカピカの風船はジェフ・クーンズの「チューリップ」↓

内部はこんな吹き抜け空間がそびえている↓これを見るだけでここへやってくる価値がある。ここは美術館それ自体が見るべきものなのだ↓

この空間を中心にして「展示室」が三階僧につくられているのだが、小松の思うところでは、ここでどんな規制モダンアートをもってこようが、建物に負けてしまうのではないだろうか。ロスコ―も、キーファーも、建物の存在感を越えられない。

ここで見るべきなのは、この場所の為につくられた、こんな作品だろう↓英語やスペイン語の文字が下から上へどんどんながれていく↓

それが・・・一歩内側・裏側へ入ると、空間の雰囲気は一変し、流れていく文字はバスク語に変わる↓「バスクは隠されてきた」という歴史を暗示している↓なるほど

 そして、多くの人に忘れられない印象を残すだろう、巨大な鋼鉄の迷路↓上から見下ろしたところがこれ↓

遠くに小さく見える人間から大きさを想像してほしい。

↑★サンフランシスコ出身のリチャード・セラによってつくられたTHE MATTER OF TIMEと名付けられた作品。この空間は「フィッシュ・ホール」と呼ばれ、この作品が入る以前には展示室のひとつとして使われてたそうだが、どんな作品をもってきてもこの空間には負けてしまっただろう。

この巨大な鋼鉄はドイツで鋳造してここへ運ばれた。形状、大きさ、配置、それぞれ慎重に選んでこのかたちになったのだ。どの位置から見ても、クジラのあばら骨のような天井と呼応している↓

この間を歩く人は、旧市街の路地をあるくように感じるかもしれない→ 八枚の鉄板がつくりだす七つの細い空間は、さっき訪れた旧市街の七つの道を思い出させた。思い込み、でしょうか。

この作品、とっても重い。千二百トンもあるのだそうだ。ところが、展示室が最初に想定していたのはわずか40トン。ガイドさんに指摘されて床を見ると、そこここに亀裂が出来ているのがわかった。

***最後に正面入り口へ。この美術館でいちばんカワイイのはこの巨大な「子犬」かもしれない↓

 

 

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ゲルニカの誓い

2017-04-06 13:51:25 | スペイン

ゲルニカ市の紋章がこれ↓

これとおなじ風景が、ビスカヤ議会のそばに見られる↓

ゲルニカはピカソの画いた絵で有名になったが、それだけの街ではない。バスク地方の支配者となった者はこの木の下で、バスク人の自主権を尊重する誓いをたててはじめて、領主として認められてきた。1476年のその様子を画いた絵が、象徴的に飾られている↓

大きな木の下に地域の代表が集まってモノゴトを決める、というのはキリスト教時代以前からの習慣だったと思われる。洋の東西を問わず、大きな木というのはそういう役割を持つことが多い。ゲルニカではそれが脈々と現代まで受け継がれているのである。

この木のすぐとなりに、現代のビスカヤ県下院の議事堂がある↓楕円形すり鉢状に座席が配置され、現在も使われている。五十一人の議員が集まる頻度は一か月に二回程度だとしても↓

周囲をとりまく全身肖像画は、中世からゲルニカの木の下で誓いをたててきた領主たち↓その上には、歴史的に重要な誓いがいつ行われてきたのかを文字にしてある↓

この議事堂は1830年に建設されたもの。できるだけバスク産のものを使ってある。 教会としても使われていたので、当時の入口には聖水を入れた器がみられる↓貴重な赤大理石?のようにみえるが、近くのエレーニョという場所でとれる赤い石灰岩を磨いてそんなふうに見せているのだそうだ↓化石が含まれている↓

となりの部屋はかつての中庭だった場所。中庭の天井部分をステンドグラスにして、そこにゲルニカの木を大きく描いてあった↓

木の下に並ぶのはバスクの歴史的な職業。おもしろいのは左奥に船のオールを立てて持っている鯨取りの漁師たち。19世紀はビスケイ湾でたくさんの鯨がとれていた↓

ステンドグラスの端に描かれたたくさんの建物は、ビスカヤにある歴史的建造物。 南米解放の英雄であるシモン・ボリバルの祖父母の家もある。ボリバルは革命運動のなかで、ビルバオに一年住んだ事もあったのだそうだ。

ゲルニカの木すぐ近くに、今は使われていないLUMOの議会だった建物がある↓LUMOとは隣接した別の市だったのだが、19世紀にゲルニカと合併している。冒頭の紋章にも名前がのこされている↓

現在のゲルニカの木の「おじいさん」にあたるものが、一部大事に保存されている↓

この議事堂は学校の見学もたくさんやってくる↓

***ゲルニカ平和館を訪問↓市庁舎のあるこの広場に面している↓下の写真で左側の旗の出ている建物は市庁舎。この写真は平和館のすぐ前から撮影したもの↓

入口を入ったところ。七夕みたいな飾りがあった→二階へあがっていく階段に、また「ゲルニカの木」

バスク語で「平和」はBAKEAなんだそうだ→

世界の紛争に関しての展示も多いが、ここで必ず体験しておくべき展示は、1937年4月26日の爆撃を体験した一市民の「その日」を再現した部屋↓入ると、ブラインドの下りた。年配の婦人の部屋。家族がどんなふうに過ごしていたのか、静かに語られはじめ、やがて「その時」がやってきて、瓦礫となった街の様子が映し出される↓

  この部屋を出ると、当時に至るゲルニカの現代史を様々な角度から解説した展示がはじまる。

市民への無差別爆撃に怒ったピカソがパリで画いた「ゲルニカ」の解説ももちろんある↓

ピカソが支持した共和国スペインは敗れ、フランコ将軍が支配するスペインにこの絵の居場所はなかった。世界各所で展示され、1958年にニューヨークのMOMAに預けられた。「スペインに平和が戻ったらこの絵をもどしてくれ」と、ピカソは言ったが、1973年に彼が死ぬまでにそれが実現することはなかった。 実現したのはフランコ将軍の死後六年を経た1981年である。

「この絵は、ゲルニカの街にこそあるべきだ」という意見もある。街に設置されたレプリカの下には「ゲルニカを ゲルニカへ」と読める言葉が書かれていた。フランス人の学生たちが説明を聴いている↓ ずっとこの町に展示するのがよいかは分からないが、一度ぐらいこの町にホンモノを展示する機会があってもよいのではないでしょうか。

今回、ゲルニカ平和館の地下で行われていた特別展は、「ゲルニカ」を現代の絵描きがあたらしく解釈した作品たち。これがなかなかおもしろい。そのひとつ↓アメリカが世界で行っている事を糾弾しているのだと、ひと目でわかる「ゲルニカ」↓

***

正午を少し過ぎ、スペインの昼食にはまだまだ早い時間。なので空いたバーでピンチョスの軽食タイムにした↓

地元のビールBOGA。なにげないハムがめちゃくちゃおいしい! 

バーの奥に「ペロタ」の選手を囲むひとびとの古い写真があったバスクのシンボルのひとつであるベレー帽をかぶった姿もたくさん見える。

「パブロ・ピカソ通り」

駅前からバスに乗り、ビルバオへ戻ります。午後三時過ぎにグッゲンハイム美術館の予約を入れてもらっている。

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ビスカヤ橋とネルビオン川港湾地帯

2017-04-06 10:11:49 | スペイン

《手造の旅》北スペインの旅二日目。世界遺産ビスカヤ橋、ゲルニカ、そしてビルバオの街とグッゲンハイム美術館を見学する日。

 ** ビルバオの中心部に位置するホテルを出発して、三十分ほどでネルビオン川の河口地域に到着。このタイプの橋としては、1893年世界最初のもの。下の写真一番左に写っているのがそれ↓

 

この橋だけでももちろん一見に値するけれど、周辺港湾地区がどのように変遷してこの橋が建設されたのかを知ると、ビルバオとバスクのこともよく理解できるようになる。

 

***

最初に、この橋から少しはなれたGETXO(ゲチョ)地区の豪邸街があった場所をドライブした。

川のこちらゲチョ地区と、対岸のポルトカレーテ地区とは住む階層が違ったのだ。 18世紀末にこの河口地区に港はなかった。船はネルビオン川を14キロ遡ったところにあるビルバオの港を目指していた。現地の案内板にその時代の絵がのせられている↓ 絵で下の部分が19世紀に邸宅街となったゲチョ地区である↓

対岸との間にひろがっている砂浜に当時はなんの建物もない。現在はこんな海辺の散歩道に小さめのヴィラが並んでいる↓

1856年にマキシモ・アギーレという人物が砂浜を購入し開発。こんなリゾートタウンがとなったのである↓

1905年の様子が案内板にあった↓写真一番右に写っている大きめのヴィラは、冒頭のビスカヤ橋を設計したアルベルト・パラシオが亡くなった場所であると解説されていた↓

そのヴィラは、いまもそのままの場所にある↓建設されたのは1894年。ビスカヤ橋が開通した翌年↓

パラシオが亡くなったのは1939年。つまり、スペイン市民戦争がフランコ側の勝利で終結した年。ビスカヤ橋は通行できないように上部を破壊された状態だった。橋の解説版にその当時の写真がある↓これは同じ1937年にゲルニカに行われた爆撃によるものなどではない。共和国派が敵の通行を止めるために行った橋を落とす作戦の一部だった↓自分の建築した橋が壊れたのを間近で見ていた晩年のパラシオの気持ちはどんなだっただろう。

 この橋が建設されたのは、対岸のポルトカレーテ地区が本格的な港湾地帯として開発されたから。

それ以前の河口は砂が溜まり、満潮の時でなければ浅すぎて船が航行できない状態だった。船が大型化していく時代、これはビルバオにとって致命的な弱点である。

根本的な解決は19世紀末に行われた。エヴァリスト・デ・チャルーカは1887年に何百本もの鉄を打ち込んで船が接岸できる場所をつくり、川底を深く掘り、川が運んでくる砂が溜まらない万全の港を整備した。これがなければ、その後のビルバオのひいてはバスクの繁栄はなかったかもしれない。

自然の力を克服した彼の功績を讃えたモニュメントが河口に建てられている。後ろから見ているとよくわからない?何が表現されているのかしらん?↓横へまわってみると、巨大な人が何かを押しやっている姿のようだ↓

前から見ると・・・押しやられているのは海を象徴する海神ネプチューン、人間がその猛威を海の方へ押し戻しているのか。後ろにはそれを見守るエヴァリスト・デ・チャルーカの姿があった↓

ビスカヤ橋を見学したら、もう少しだけ足をのばして、地味だけれどビルバオにとって不可欠だった仕事をなしとげた彼の功績を偲んでほしいと思う↓

****さあ、橋をわたってみよう。券売機はこれ

巨大な船がこの下をくぐってビルバオの港へ向かえるように、常設の橋構造は高さ164メートルの位置にあるだけ。通常人々はこんなゴンドラに乗って行き来している。一台だけだが、ものの二分でどんどん往来するので便利↓

一回に車六台と二百人を運ぶことができる↓

↑このゴンドラの天井に、巨大な船が橋の下をくぐる写真が貼り付けられていた↓これは、橋より上流に今も残る造船所で建造された船が海へでてゆくところ、五キロほどの距離を六時間かけて慎重に航行したそうだ。そしてぎりぎりの高さで橋をくぐり↓

↑船のいちばん上部の構造は海へ出てから付け加えられたのだそうだ↑

対岸ポルトカレーテ地区が近づいてくる

とてもおもしろいアイデアの橋は、この後世界中で似たようなものがつくられた。設計者、アルベルト・パラシオは、マドリッドに現存するアトーチャ駅をつくっているが、他にもいろんなアイデアを持っていた。そのうち実現しなかった破天荒なアイデア三つがビスカヤ橋に描かれている↓

真ん中にある地球は、マドリッドのレティロ公園に建設しようとしたもの。土台部分百メートル、上部の球体は三百メートル。つまりエッフェル塔をはるかにしのぐ高さ。、真ん中に外側を歩ける展望プロムナードがとりまき、ガラスをつかって半透明で内部が見えるというシロモノ。実現していたら師匠エッフェルを超える名声を得ていたかもしれない。

ゲチョ地区にもどり、少し離れて見上げるビスカヤ橋。確かにこの時代にはじまった鉄の塔建築のひとつだ。エッフェル塔的な構造だといえるかもしれない↓

一番下の部分には彼の胸像がある↑

鉄塔の下、土台部分は対岸ポルトカレーテ地区とこちらゲチョ地区とでは全く違う。ポルトカレーテ地区が岩盤で比較的楽に鉄塔を建てられたのに比べ、ゲチョ地区は軟弱だったので、まるでヴェネチアのように長さ12メートルの太い木をたくさん打ち込んで、その上に鉄塔を構築しているのだそうだ。地元のガイドさんならではのお話しでした。

★★★

ビルバオで育ったがガイドのUNAIさんは、ここに暮らしてきた人でなければできない話をいろいろきかせてくれた。いちばん印象的だったのは、彼が子供だった1980年ごろ、この橋のある河口はひどい汚染で臭くてたまらず、川の色もオレンジ色だったという話。

1920年代には世界の鉄の半分を作っていたという(ガイドさんの話)ビルバオも、半世紀後には凋落し、ひどく汚染された港湾だけが残されてしまった。

1983年に旧市街の一階が完全に水没するほどの氾濫があり、ビルバオ市は強い決意で新しい街を計画しはじめた。三つの大きなプロジェクトが動き出した↓

①ビルバオ市のど真ん中にある港をアルビオン川の河口に移転する。その跡地にグッゲンハイム美術館を建てる。

②地下鉄路線から郊外線を整備する

③汚れきった川を浄化する

今日午後に見学するグッゲンハイム美術館は、新しい街のシンボル。午後の見学が楽しみ(^^)

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