旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

北キプロス~ベラパイス修道院跡、キレニア城

2015-11-23 20:27:15 | キプロス

北キプロス東海岸のファマゴスタを離れ、北岸のキレニアを目指す。キプロスには大きく分けて二つの山脈がある。北にあるキレニア山系は最高峰が千メートル少し。130㎞ほどの長さで東西にのびている。その中でひときわ印象的な形をしているの山、ペンタ・ダクティロが見えてきた⇒これは「五つの指」という意味

★伝説:昔々、水利にめぐまれなかったこの地方に水をひこうと、美しい女王が彼女に恋した怪力の大男ディゲニス・アクイタスを利用した。「みごと水路を引くことができれば、そなたと結婚しようぞ」という約束。大男はこの言葉を信じて働いたのだったが、完成後、(よくあるように)女王は約束を反故にした。怒ったディゲニスは、思わず山をつかんで投げ捨てた。その手の跡がこれ、なのだそうだ(^^)

*北キプロスは、南の人々からは「トルコ占領地区」と呼ばれている。山の上に「国旗」がひるがえる 北の海岸線が見下ろせる場所まで来ると、ベラパイス修道院はもうすぐだ バスを降りて少しあるくと、巨大な修道院がなかば廃墟になってあらわれた。

ずいぶん遅くなったけれど、すぐ前のレストランで昼食を。お店の方が特別おいしい魚を出してくれたこれ、日本の料理屋で出ても「おいいしい」と言えるレベルの一皿だった。・・・それなのに、忙しい「視察団」の我々は三十分も滞在せずに早食い。申し訳ありません

**ベラパイス修道院は「ベラ=良き」「パクス=平和」という意味。ビザンチン時代から存在したが、栄えたのはルジニャン王朝の時代。当時の家紋が入口に残されている水盤は古代の石棺を再利用している

巨大な集会場は、どれだけ多くの修道僧がいたのかを想像させる 地震で破壊されて往時の規模はもうないが、その栄光の名残を感じることが出来る。

***修道院からも遠く見えるキレニアの港、キレニア城へ向かう。そこにもルジニャン家が歴史を刻んだキレニア城がある。夕暮れて、いそがなくちゃ  中庭には小麦粉をひいたと思われる臼が歴史が積み重ねられている場所だ。牢獄に使われた一角に、どきっとする蝋人形が・・・彼が見下ろしている先にはお腹のおおきな女性がよこたわっている・・・これは、ルジニャン家のピーター一世の愛人ジアン。正妻の王妃が、愛人の子供を流産させようとひどい拷問にかけたと伝わっている場所だった。

いちばんの見ものは★世界最古の沈没船。※ちかごろイスタンブールでもっと古い船が発見されたとか…   これはなんと紀元前三世紀末、アレクサンダー大王の頃のものだと推察されている。キプロスを代表する歴史遺産と言ってよいものなので、50セントコインのデザインにもつかわれている⇒

港を見下ろせる場所へのぼる 日本を出発してドバイ経由・・・長い一日でした

***バスへ戻る途中、どうしても気になったこのドーム。明らかに教会なのだが、はじめからこんな狭い場所を選んでつくったはずがない。下の階へ降りて寄り道をする・・・細い通路を抜けると・・・12世紀のロマネスク空間がひっそり残されていた。

はっとさせる小さな石のアーチがつくりだす空間。柱頭は古代からの再利用かもしれない。資料を読むと、ビザンチン時代からルジニャン家が支配した時代には、この教会は城壁の外側に位置していた。 その後、ベネチア支配時代に拡張された城壁の中にうもれるように残された、ということか。 城壁建設の時に壊されなくてほんとうによかった(^^)小松としては本日思いがけない収穫です(^^)

バスにもどり、首都ニコシア近くでグリーンラインを越えて南キプロスへ戻った 南から来た我々は北に宿泊することは認められていないのであります。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北キプロス~ファマグスタ、サラミス遺跡

2015-11-23 14:46:15 | キプロス

ファマグスタは紀元前からの街だが、現在みられる堅固な城壁は16世紀ヴェネチア時代に建設されたものになる。その一角の通称「オセロ・タワー」を訪れる。シェークスピアの「オセロ」の冒頭に出てくるということでそう呼ばれいるのだが、シェークスピアはもちろん訪れていない。入口にはヴェネチアのシンボル=羽のあるライオン「サンマルコのライオン」が ヴェネチアがキプロスを支配したのは1489年からおよそ八十年ほどでしかないが、堅固な城壁島の各地に残している。それだけオスマントルコとの攻防が激しい時代だったのだ。

大砲の発達によりそれまでの石塀のような城壁では足らなくなり、これだけの厚い城壁が必要な時代になった。そこに登ると、いまでもトルコ軍の基地が近くに見える。「あまりそちらの写真を撮っていると、ぴーっと笛が鳴らされるんです」と、ガイドさん。でも、いたってのんびりした雰囲気に感じられる。だいたいが観光客に登らせてくれるんですから(^^)

城壁は3.2㎞の長さがありが、出入り口はかつて「海の門」と「陸の門」の二つだけ。要塞の出口に古い木材が使われていて、ドアが回転していた跡がのこっていたこれはヴェネチア時代の・・・?

城壁内にはかつて三百もの教会があったと言われるが、その多くが壊された。現在でもいくつかが廃墟をさらしている 石材はアレクサンドリアの都市再建に使うために使われたのだとか。

★★★もっとも重要な聖ニコラ教会は、ララ・ムスタファ・パシャ・モスクとなって現在でもつかわれている。ファサードの左にとがったミナレットが付け加えられているのがおもしろい。ここではかつてキリスト教徒のキプロス王が「イスラエル王」としての戴冠式を行っていた↓

イスラム圏でするように、入口で靴をぬいで入る教会そのものに見える空間だが床には絨毯が敷き詰められているミヒラブ(メッカの方向をあらわす)が設置されすっかりモスクだ 

教会向かって左の一角に石の柱がたってる。1571年、オスマントルコの包囲に抵抗し続けたヴェネチア総督マルコ・アントニオ・ブラガンティーノは、降伏時にも尊大な態度をとり続けたためにオスマントルコ側を怒らせ、耳と鼻を削がれた後この柱につながれて生きながら全身の皮を剥がれて殺された。それがっこの場所だと伝えられている 

●バスへ戻る道にはたくさんのカフェ。値段がトルコリラ「TL]表示のお店も⇒でも、南キプロスからやってくる日帰り観光客の経済効果は重要だからユーロをとってくれる店も多いのが実情。

トルコのゼリー菓子ロクムがこんなふうに切り売りされていた 

街をドライブするとトルコの発展した地方都市という雰囲気がある。小学校の塀に描かれた絵⇒日本で、小学校の壁に日の丸はなかなか見られない。愛国心の強さが感じられる。

****ファマグスタはかつてキプロスを代表するリゾート都市だった。ビーチサイドには豪華なホテルが立ち並んでいたのだが、1974年のトルコ軍侵攻の後は廃墟となり、今でもそのまま放置されているエリアがある。そのエリアで犯罪が起こるのを「恥だ」として書かれた新聞記事

立ち入り禁止のそのエリアのそばを通る⇒

***

★サラミス遺跡は、アテネ近くのサラミス島から移住してきた人々が住んだのでその名前でよばれるようになったという。

次の写真は、元ローマ時代のジムと浴場。オリジナルの柱は花崗岩だったがそれはあまり残されていない。キリスト教時代になってから学校に用途変更され、元の建物を改築して使用された。現在復元されたコリント式の美しい柱は別の場所からもってこられた。

古代には10万人の住んだ大都市。再建された劇場は1万五千人収容。観客席は39列あったが、現在再建されているのは19列のみ。そのうち下のほうの白い大理石がオリジナル部分。上まで登ると海が見晴らせる⇒オルケストラには紀元後一世紀と推察される奉納代石がある。ここではいけにえをささげたとみられ、血を流すための道のあとが見つかったそうな。

都市はAD4世紀に地震で壊れ、石はキリスト教徒のための建物のために再利用されている。ここはキリスト教徒の為の学校だったそうだが、床に古代の石材を再利用している⇒ ローマ人は得意の土木技術で水をひき、浴場をたてた

***現在のリゾート海岸は豪華ホテル群ではなく「海の家」程度 

古代の街を離れる時、かつてのネクロポリスの一角だっただろう古墳の盛り土がいくつも見えた

・・・今日の午前空港に到着したばかりだが、この後もまだまだ北キプロスを見学。北の海岸線にあるキレニア城とベラパイス修道院へ向かう・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北キプロスへ

2015-11-23 11:56:23 | キプロス

キプロス研修二日目。

最初に強調しておきたいのだが、2015年11月現在、キプロスまったく平和。世界中から250万人の観光客がやってくる。 トルコの南、イスラエルの西に浮かぶ島というと日本人はつい避けてしまいそうだが、全然問題ない。地中海を代表する、観光・食・ホテルすべてにめぐまれた島のひとつだと言えるだろう。

**ラルナカ空港を出て東に向かう。2015年11月現在七つある南北を行き来出来るゲートのうちいちばん東に位置するストロビリアゲートから北キプロスを日帰り見学する。

島は四国の半分ほどの大きさ。その真ん中346㎞におよぶ、「グリーンライン」が、南北キプロスの「国境」としてはしっている。下はガイドさんがわざわざグリーンに塗ってくださった地図※拡大してご覧ください⇒★黄色い部分はイギリス軍の基地。イギリスから独立する際に設置が合意され、現在もそのままになっている。キプロス島全面積の3%を占めている。

この「国境」は、トルコ軍が侵攻する十年前1964年に起きたトルコ系とギリシャ系との間で起きた紛争を解決すべくアメリカが介入して設置されることになり、その管理に国連の平和維持部隊が投入されている。

イギリス軍の将校が実際に地図に線を引く際に、トルコの色・赤でもギリシャの色・青でもない緑色をつかったことからその名前になった。

「グリーンライン」は幅10メートルから100mの幅で全土を横断している。 それが、いよいよバス左方向に見えてきた。このあたりの土はキプロスらしい鉱物を多く含む赤色をしている。グリーンライン近くにあった街は1974年以来放棄され、今でも廃墟となってその姿をさらしている⇒

グリーンラインの北側・トルコの警備小屋

そして、驚くことにイギリス軍が広大な面積の基地を二か所もっていて、そこを通過する。※先ほどの地図参照 次の写真は、イギリス軍兵士の住宅。消防署の看板にイギリス王室の冠がついているのがわかる イギリス軍部隊の旗?⇒中東地域を見張るもっとも性能のよいレーダーがこの基地の中にある⇒

北キプロスの「国境」が見えてきたのんびりしたものだ。

北キプロスの「国旗」は、トルコ国旗の白と赤を逆転させたデザイン

我々はパスポートをチェックされるだけで、「北キプロス」に入った。

すぐに、トルコ建国の英雄アタチュルクさんの像が見えた

そして、北キプロスを代表する観光地ファマグスタの城壁が見えてきた⇒

・・・続く

 

北キプロスを国を認めているのはトルコしかない。1974年にトルコ軍が侵攻してそのままだから、南キプロスの人々は「トルコ軍占領地域」と認識している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はじめてのキプロスへ

2015-11-22 12:13:08 | キプロス

「キプロスへ研修にいきませんか?」と、日頃お世話になっている海外手配会社の方からお話をいたのは半年以上前だった。想定外の場所だったが、自分のの幅をひろげられる絶好の機会と思い参加。すぐに出発の日11/22となった。 

ドバイ乗継。砂漠の中の摩天楼
機内の飛行マップを見ていたら、戦争をやっているシリアとイラクの上空をしっかり避けているのがわかる四時間ほどの飛行の後、南キプロスのラルナカへ向かい降下をはじめた。窓からキプロスの島の大地が見えてくる。木々ははえていても森林はみえない、乾いた台地。地中海は雨が少ない場所なのだと、あらためて感じる遠くの丘は白く、何かを採掘している。キプロスCYPRUSという名前は銅のラテン語CUPRUMからきているという。今でも鉱物資源は豊富だし、大理石もとれる。

飛行機を降りてすぐ迎えてくれたのがこの絵。右端の裸像、すぐに「あれだ」とぴんっときた↓

キプロス島はギリシャ神話の愛と美の女神ヴィーナス誕生の島。発掘された神像のうちのひとつが特に有名で考古学博物館に収蔵されている。※後日、実物を見ることが出来た↓


また、島の南半分は主にギリシャ正教徒が住んでいる。左端で礼拝のポーズをとっているのは大天使ミカエルかしらん。古代の文明とギリシャ正教、ひと目で南キプロスをあらわしている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モンテネグロの世界遺産都市コトルへ日帰り

2015-11-06 12:53:08 | クロアチア
《手造の旅》クロアチアとアドリア海10日 八日目、ドゥブロブニクよりモンテネグロへ終日の日帰り観光。当初、ドゥブロブニクでゆっくりする方があってもよいと思っていたが、結局全員参加となった。未知の国への好奇心をかきたてられる。ツルナ・ゴーラ(=モンテネグロの現地での呼び方)。

ドゥブロブニクをでて十分ほどで振り返ると、きのうの高台からとはまちがった町の全景が楽しめる

一時間ほど走って、国境へ到着ここはクロアチアを出る国境、バスに係官がのってきてスタンプを押す
三分ほど走ってからモンテネグロの入国国境へ到着し、そこで手続き。

さぁ、モンテネグロ!ちょっとドライブインで休憩。ええっと、ここの通貨はなんだっけ?
なんとユーロなんです!

モンテネグロはEUに加盟していないが、ユーロを国の通貨にしている。
※この話はまた別のところに書きます。

まがりくねった海岸線を走り、入り江にあるというコトルを目指す。途中で「船を使うよ」とドライバーさんが言い出した。はじめなんのことかわからなかったが、あとから走行ルートのGPSデータを見て、それがとても効率的だったということを知った。
なるほどねぇ!

船のマストについている、モンテネグロの国旗。赤地に黄色い双頭の鷲。これはハプスブルグとは関係なく、キリスト教会の司教が世俗国のトップを務めたということで、聖俗両方を意味しているのだと、コトルのガイドさんのお話。

コトルの城壁が見えてきた入り江の奥、三角形の突き出した半島を覆っている旧市街マリーナ門から入るとこぢんまりした旧市街はドゥブロブニクよりずっと歩きやすそう。 これが大聖堂。

もとはロマネスクだった建築を改修しているのがわかる。

コトルが栄えて建設ラッシュだった時代はロマネスク建築の全盛期、だからこういう魅惑のロマネスク教会がたくさんある

また、モンテネグロは四割以上がセルビア人なので正教徒ようの教会もある⇒像はなく、イコンだけで飾られ。座席はつくられない。ミサの時には全員立っているのがきまりなのだ。

旧市街を見下ろす山の上に向けて城壁がジグザグにのぼっているのがわかる。サンドイッチを買って途中の礼拝堂までのぼりましょ!



十一月の晴れた日はとても気持ちよくピクニックできた
礼拝堂には日本語の説明

旧市街に降りてもう少しひとりで歩く。これもまたロマネスクのドームだ入れたのは大聖堂。ここの正面祭壇がこれ

****
ドゥブロブニクへの帰路、船で一緒になったアルバニアからのバスアルバニアもまた双頭の鷲を紋章につかっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする