旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

秋のプリトヴィチェ国立公園

2015-11-03 00:30:40 | クロアチア

《手造の旅》クロアチアとアドリア海10日 五日目

プリトヴィチェ国立公園は今回訪れる中でいちばん標高が高く、11月初めとなればかなり寒くなってる可能性があった。現に日陰は霜がおりている 気温は4度ほど。寒くはあるが、気持ちより高い青空がひろがり、観光客で数珠つなぎになる夏よりずっと快適である。紅葉もおわりかけているが見事 国立公園内の乗合バス「熊もいるんですか?」そう、いるんです。これはホテルのロビーにあった剥製⇒今日はこのバスにはのらず、落ち葉を踏んで木道をおりて湖畔からボートに乗る。澄んだ水には魚がたくさんこれは入場券の裏の地図

ボートのエンジンの音だけが小さく響いてくる、ほとんど貸切の船の上。乗船に行列する夏とは全然違う雰囲気。ぐるりと紅葉が取り囲む。人に慣れたきれいな小鳥が寄ってくる三十分ほどで下船、いくつも階段状に続く湖をみながら歩いてゆく。

「大滝」のところまで。夏よりもぐんと水量が多い さいごはバスの待つ場所までジグザグの道を15分ほど上る。さっきまで歩いていたルートと大滝が見晴らせる。

***

バスに乗り、山を左手に見ながら進む。あの向こうはすぐボスニア。内戦時代にこの一帯は戦闘地域だった。今も軍の基地がおかれている

昼食はドライバーさんの提案してもらった場所でセルフサービス。ここは兄弟の熊が飼われていて、ちょっとした動物園。

ネコちゃんが熊のご飯をいただきに入っていますが、熊のご飯になっちゃわないでしょうか。この二頭は親が撃たれて小熊でひきとられたのが、ここまで大熊に人間のサイズと比べてみるとよくわかる シカも このドライブインカフェの砂糖はこんな楽しいデザイン ロビーには

***

バスは海岸線へ出る。クロアチアのアドリア海沿い=ダルマツィア地方は切れ込んだ入り江が連続してあらわれる。こんな橋ができる前はずいぶん時間がかかるドライブだっただろう奥に見えるのはスクラディンという歴史ある小さな町奥にある湖と海の間に位置している。

午後はシベニクの街を見学する。ここにも世界遺産指定された教会があるのだ。

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聖母の家が飛んできた町リエカ

2015-11-02 15:09:37 | クロアチア

《手造の旅》クロアチアとアドリア海 四日目 午後三時前、クロアチア最大の港町リエカが見えてきた。町の上に黒くスモッグがたなびいている 港へはいってゆく途中にネオゴシックの「ロレートの聖母教会」こちらは今日は外観だけ。地元のガイドさんとお会いして、海抜百三十メートルほどのトゥルサット地区へのぼってゆく。

**リエカには伝説がある。

聖母マリアがキリストを産んだナザレの家が、1291年5月1日天使によって運ばれてきた。 町の人々は驚き日々礼拝していたが、三年半後にその家は、再びイタリアのロレートに飛んでいってしまった。

「なぜ?」と悲しんだ人々は、家のあった場所を覆うように教会を建てた。それがこのトゥルサット教会

この外観は17世にバロックで拡張されたもの、内部に14世紀ごろの古い教会部分を内包しているそれはこの主祭壇がある鉄格子の向こうの部屋この部屋のかたちは、その聖母マリアの家と同じになっていそうな。祭壇に置かれている絵は、十二使徒のひとり聖ルカが描いたとされている 1367年に法王ウルバヌス5世が下賜したと伝えられている。 

キリスト教徒にとって重要なこの場所に葬られたいと願う人々は多い。 地元ガイドさんに説明していただいて興味深かったのはこの小さな墓石。ペトリ・クルチェックという人物は、オスマントルコとの戦争で亡くなった。遺体はトルコ側にあったが、ペトリの妹はその首だけを買い取り故郷に戻す。生前兄が信心していたこの教会に葬ったのである。 葬られているのは首だけなので墓石は小さかったのだった。 ペトリは生前、下の港から丘の上のこの教会へ上る階段を建設したことで知られている。

教会の外には、ひざまづくローマ法王の銅像があった⇒ おお、このお姿はあのヨハネ・パウル二世 彼は亡くなる二年前2003年にここを訪れていた。 クロアチア滞在中ずっとこの教会付属の修道院に宿泊していたのだった。滞在中ずっとそばにいた彫刻家が製作した銅像は、法王の死後に製作された銅像のなかで最も早いものだったそうである。

祈るヨハネ・パウロ二世の写真が、となりの修道院回廊に飾られていた歪んでしまった痛々しい背中から祈りが伝わってくる。この時期のヨハネ・パウロ二世はパーキンソン病が進行し、歩くこともままならなかったはずなのに、ここまでやっていたのか。 「聖母ゆかりのもっとも古いこの地を訪れるという夢がかなった」「私が居る時も、居なくなっても、トルサットの聖母を祈ってください」ここは滞在した際の言葉がいくつも添えられていた。 クロアチアでの訪問は五か所にもなったが、宿泊地はリエカだけ。ここから専用のヘリで往復したのだそうだ。

タイタニック号ゆかりの、ちょっとおもしろいものを見せてあげる」 地元ガイドのロミーナさん、小松が話にくいついてきたのを知ってとっておきをひとつ教えてくれた。それは、この奉納品の部屋にある一枚の絵リエカは第一次大戦前にはヨーロッパでも十本の指に入る港だったので、船に関連する奉納は多い。 アメリカへの定期航路もあった。

★1912年、氷山にぶつかったタイタニック号の救難信号を受信したのは、ニューヨークから地中海に向かっていたカルパチア号だった。イギリス船籍だったが、乗組員はクロアチア人が多かった。七百名以上を救出したのち、船員のひとりが救命具のひとつをリエカに奉納した。彼はその後アメリカへ移民し、さらにアルゼンチンへ渡った。半世紀以上の後、晩年を迎えた船員は、若き日に遭遇したタイタニック号の出来事をたどり、その時の絵をニューヨークタイムズの記事と共に故郷リエカのトルサット教会に奉納した。上に載せた二枚の写真のうちあとのものにその絵が写っている。

絵は誰が描いたのかわからない。本人がここへやってきたのか、代理にだれかが納めたのかもわからない。ガイドのロミーナさんにこの話をしてくれた修道僧も、「昔の話」としてきいた事なのである。

***

トゥルサット教会のすぐ上に古いTRSAT CASTLE トゥルサット城がある 「市内よりもこっちに時間をもっととったほうがよいわよ」と、ロミーナさんが案内してくれる。港を狙えるようにテラスから大砲 そして、リエカの市内を流れる小さな川が光っている。「これがイタリアとユーゴスラビアの国境だったのよ」 え?こんな小さな川が?

 第一次対戦に勝利したイタリアは、敗戦国オーストリアが支配していたアドリア海北岸をイタリアに併合するように求めた。しかし特に重要な港だった地区は英仏が認めず、リエカは共同管理地域となっていた。 この状況にイタリアの小説家・政治家・軍人であったダヌンツィオは、私兵二千と共にリエカを実力で占拠してしまった。この支配は二年ほどしか続かなかったが、実質イタリア領となったリエカは、その外にひろがるユーゴスラビア王国との国境をこの小さな川と決めたのである。

城はたいして大きくない。中世風の円形塔の横に、あきらかに後からつくらせたギリシャ神殿風の建物がある。実はここは19世紀の、ある人物の墓所だった。

●Laval Nugent ラヴァル・ヌゲント は、アイルランド生まれのオーストリア貴族、三十歳で陸軍大佐になり、ナポレオンとの戦いで名をあげた人物。1815年にはフランスからアドリア海沿岸部ダルマツィア地方を開放するのに戦功があった。妻はこの地の有力家の人物で、リエカ港を見下ろすこの城を買い取り、古代の発掘物をコレクションしていた。このギリシャ神殿風の建物は、彼の古代文明コレクションを収蔵する場所であり、彼の墓所としてつくられたのである。

この城のある場所は、古代先住民族イリリア人の城塞トルサットがあったとされる。ローマ人がその後利用し、統治者の変遷にともないいくつかのファミリーの手を経て、名家フランコパン家のものだった。フランコパン家はダルマツィア文化の大きなパトロンだったが、1671年に「陰謀」によってお家断絶となった。ラヴァルの生きた18世紀末から19世紀のはじめにかけては、すでに荒廃した古城だったようである。

ラヴァル・ヌゲントは1862年に没し、妻やその一族たちと葬られていた。しかし、社会主義ユーゴスラヴィアはこういった貴族の財産をそのままにはしておかない。遺体はこの神殿のような墓所から取り除かれ、ここはなんとレストランとして使われていたのだそうだ。

ドーリア式の柱の間は施錠されていて、中はがらんとしている ラヴァル・ヌゲントの集めた古代からのコレクションはどこへいってしまったんだろう・・・と思っていたら、城の入口のところにこんな張り紙がしてあった そうか、今でもラヴァルのコレクションは町のどこかでちゃんと管理されていたのか。この場所に彼のコレクションを展示した小さな博物館が開館したら、きっと彼も喜んでくれるだろうに。

***バスに戻る途中、トゥルサット教会付きのフランチェスコ会の修道士たちが集まっているのにいきあったみかけない東洋人のグループに向こうも笑顔をみせてくれているので・・・「ちょっと写真でもとりませんか?」と話しかけると、こころよくOKしてくれた。「はーい、いきますよ~」と声かけたところで、一匹のにゃんこがゆうゆうと前を横切って・・・

****今回リエカを見学地に入れたのには、クロアチアの100クーナ札が関係している。ここに描かれている教会がリエカにあるのだ。聖ヴィード大聖堂はバロックだが古代の円形教会の雰囲気を模しているようにみえる。どこの国でもお札に載せる建物はそれだけの価値をもっているものの筈。

港近くの旧市街を歩きながら、ガイドのロミーナさんに「100クーナが見られますね」と水を向けたのだが、「??」とという反応。え?「ほら、この教会ですよね?」と100クーナ札を見せると、びっくりしたように笑い出した。そうか、彼女、知らなかったんだ。 「いつもユーロばっかり使ってるから」とロミーナさんの照れ隠しに、二人で大笑い

でも、よく考えると、日本人でも同じ。日本の千円札で富士山の前にある湖は何湖か?一万円札の裏の鳳凰像はどこにあるか、ご存知ですか?

教会は夕陽がファサードを照らして美しい

リエカは現代までも港町として栄えているので町の中もずいぶん新しくなってしまっているが、ちゃんと案内してもらえれば古代の門もこんな風にのこされてる 路地裏にはフォロのなごりも かつて城壁だっただろう場所には近代に建設された塔門リエカを反映させた二人のハプスブルグ家の皇帝が刻まれている。 信号待ちをしている時に、こんなシールが貼られているのをみつけた。これって誰?何の意味なのでしょう?⇒ 「この人は今の首相だけれど、今週末に選挙できっと負けるから『ゲーム・オーバー』なのよ」とのこと。今回の選挙の争点はシリアからの移民をクロアチアを通すかどうか、が、大きいとか。

★バスの待つ川のそばに出て、さっきまでいた丘の上の城塞を見上げる。あらためて、ここがイタリアとユーゴスラヴィア王国の国境だった時代があったことを考えてみる。

***夕暮れてきたリエカの港。キリンたちのシルエット

今日宿泊のプリトヴィッチェ国立公園は内陸だが、夕暮れるアドリア海のクロアチア側海岸線は島々と入り江がいりくんでつづいてゆく

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プーラ~ローマにまけない古代の巨大アレーナのある街

2015-11-02 10:46:17 | クロアチア

《手造の旅》クロアチアとアドリア海 四日目 午前 

プーラ郊外、海に面したリゾートの朝

イストリア半島の南端プーラにはローマにもまけない巨大な円形闘技場が残されている。今日はじめて見て、ローマのコロッセオをはじめて見た時の衝撃を思い出した。

町の人口は当時五千人ほどだったが、このアレーナは二万三千人を収容できる大きさがある。それだけ外からの人がこの競技場めあてにやってきていたということなのだろう。

現在のイタリア方向からフラビア街道、クロアチア方向からタルサティア(リエカの古代名)が交わる場所。

       ※世界に三百ほどつくられた円形闘技場のうち六番目に大きいとされる。一位のローマから、

二位カプア、三位チェニジア、四位アルル、五位ヴェローナ。 紀元後一世紀だからローマのコロッセオと同時期に建設されたものだがローマが十年かからなかったのに対し、こちらは四十年かかった。皇帝でいうとアウグストゥス、クラウディウス、そしてヴァスパシアヌスの時代まで。

すぐ横からは古代の街道石畳が発掘されている 今日我々が入場するのも、古代の入口 

「おお~」っと、思わず声が出る 視界をぐるりととりまく古代の石壁。 その接合部には鉄と鉛がはめ込まれていて中世にはこれを目当てに破壊された箇所が多いしかし、ペストが街を襲い、人口が数百人にまで減少。このアレーナの外壁は救われたのだと、ガイドさん曰く。

長径132.45メートル、短径105メートル、高さ32.45メートル。七十二のアーチがあり、二万三千人を三十分で入退場させることができた。現在一万人規模のコンサートの入退場に一時間はかかるのは、チケットを切ったり出入り口をしぼっていたりするからだろうけれど。

三階層に分けられた席のいちばん上部は木製のバルコニーが張り出していて、女性と奴隷用だった。外側からの階段があり直接そこへ入った。コットン製の日よけ天蓋が上部を覆い、その布の色がフィールドを染めて美しかっただろう。

アレーナの地下へ今でも入ることが出来る周辺で発掘されたものをぼんぼん入れて倉庫になっていたので、アレーナに関係ないものもたくさん展示してある。

再び地上

「剣闘士は負けると殺されたんでしょ?」

「いいえ、負けてもプロの剣闘士は殺されはしませんでしたよ。あの地下通路から出て、すごすごでていくだけ。『剣闘士養成所』が、あの黄色のビルのあるところにあったのよ」 なるほど、奴隷ではなく剣闘士は費用をかけて育てるスターだった。 

★ふと気付いたのだが、このアレーナの周囲には、高いたてものがまったく見えない。これ、なにげないけれど、すごい景観規制が実行されているのです。

四つの塔があった部分が突き出している一部を白く修復するためにEUからのお金が使われたのだが、それがなんと70万ユーロ!(聞き間違いでないと思いますが…あまりに巨額)

***

街の復元図水が噴き出しているところまで上水道がひかれていた。

アレーナから旧市街へ向かう。現在オーストリア支配時代の要塞がある丘をぐるりと囲むように城壁があり、十二の門があったそうだ。ジェミニ門(双子門とも二重門とも訳されたものあり)現在の城壁は古代の墓石や柱を利用してつくられたのが分かる ヘラクレス門⇒左に棍棒も残っている。プーラの古代名は「Colonia Pietas Iulia Pola Pollentia Herculanea」つまりヘラクレスの街 なのである。 もっとも立派な門はセルギ家の門⇒セルギ家の女性が彼女自身の私費で建設させたものと記されている。 アーチのかなめ石の部分に鷲が蛇を襲っている図が掘りこんである⇒鷲はローマ、蛇はエジプトを表している。つまり、カエサル暗殺後、の二度の内戦の末、オクタビアヌス(のちのアウグストゥス)がエジプトへ逃げたアントニウスとそれを助けたクレオパトラ七世を葬った事を記念している。

プーラの街はもともとカエサルを暗殺したガイウス・カシウスの兄弟によって建設されたので、第一の内戦時には荒廃したが、オクタビアヌスの娘ユリアによって再建され、前出の名前をもらったのである。

**現地のガイドブックに、「ヴェネチアの聖マルコ教会の柱はプーラにあった教会から再利用された」と記述があったので、その教会跡を見たいとリクエストした。

★聖マリア・フォルモサ

発掘中の敷地に、かつての教会建物の基礎だけがそのかたちをみせている↓

もともとあった巨大な教会はなくなり、その柱がヴェネチアのサンマルコに転用されたというわけである。

残された一つの礼拝堂はしかし、ニンの街にあるものによく似ている。端正なロマネスクである。敷地に置かれていた円柱は現在は道路になっている場所にあった運河の底から発見されたモノ。輸送中に落ちてそのままにされていたらしい。石はトルコ産だという 

***すぐ近くだが、ちょっと気づかない一角に古代邸宅のモザイク敷石が保存・・・というかほったらかしになっている紀元前三世紀ごろのもので、「ディルカの懲罰」というギリシャ神話が主題ときいたが、仔細はよく分からない。

*****

かつてのフォロに到着。三つの神殿がならんでいた広場は二千年間かわらずに広場でありつづけている。いちばん左のアウグストゥス神殿だけがかつての姿をそのまま留めていると見える⇒ が、右に建つ13世紀市庁舎も、建物の骨格は実は古代の神殿をまるまま利用していた。裏へまわってみるとはっきり見えてくるのだ。 なぁるほど、二つの神殿組み込まれております↓

市庁舎の角の部分には馬に乗った当時の市長。と、上には建物を支える意味かテラモン(巨人)が刻まれている

古代と中世がまざりあい、現代まで目の前にそびえている街、プーラ。

**

午後は現代史においても重要な国境の街だったリエカを訪れる。

 

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ポレチュ~エウフラシウス聖堂のモザイク画

2015-11-01 20:35:58 | クロアチア

《手造の旅》クロアチアとアドリア海三日目 午後 トリュフの里でゆっくりしすぎて予定より一時間も遅い到着になった。お待たせしましたガイドさん ポレチュはこの海岸線にはよく見られる突き出した半島に出来た古代からの街である 半島の入口に築かれた城壁の城門塔のひとつがこの「五角の塔」ここから旧市街ははじまる。シーズンオフの夕暮れ間近、日曜日で地元の人も少ない ヴェネチア支配時代の邸宅

この町いちばんの見どころ★エウフラシウス聖堂は、路地をまがると突きあたりに見えた

門をくぐると、古代風にアトリウムそして内部へ入ると古代の香りのする空間がひろがった正面に6世紀と伝わる黄金のモザイク画が輝いているアドリア海を挟んでイタリア領ラヴェンナにあるたくさんのモザイクと同時期に製作されたもの。様式も非常に似ているので、同じ作者によるものとさえ思われる。

最初の聖堂はローマ皇帝ヴァレンス時代の四世紀とされる。殉教した最初のポレチュ司教マウルスの墓の上に建設された。正面左手から三人目に描かれた白衣で殉教の冠を持つ人物がそれ⇒聖堂の名前になっているエウフラシウスはその左に立つ。この教会をつくらせた主教である。さらにいちばん左の司教クラウディウスと共に、このモザイクを制作していた時目の前に本人がいた筈だ。他の聖人や天使やキリストと比べて実に生き生きと描写されているのはそのためだろう。少し色を強調させて見ると、さらにその違いがはっきり見えてくる。いちばん右の聖人マウルスののっぺり現実感のない顔に対して、左の二人は顔の色や頭髪の具合まで描き分けられている。

★よく注意してみると、二人の間に小さな子供が描かれているのが見える。これはエウフラシウスの息子で同じく司教に叙せられていたのが表記によってわかる。 このモザイク画全体の中に、もうひとり子供が描かれているのだが、それは、このマリアがいとことのエリザベツを訪問する場面うしろの白いカーテンを上げて「なぁにしてんのかな?この二人」と不思議そうな表情の召使の女の子。とりすました子供司教と対照的な表現になっているのが、モザイク製作者の力量を感じさせる↓

天蓋があってちょっと見づらい。天蓋モザイクは1277年のものだそうだが、柱は六世紀だという。いつからこのようなかたちになったのだろう アドリア海沿岸は時折大地震におそわれてきた。1440年には南の壁が壊れたので、新しくされている。そのため窓のかたちがゴシックになっている この柱の上にあるストゥッコ装飾も片側にはもう存在しない 

床は4世紀のオリジナルか?ヴァレンス帝の顔が刻まれたコインが発見されたことが時代を特定する決めてだったそうだ。

日の暮れかかったアトリウムに出るこの中は洗礼堂になっている⇒洗礼してキリスト教徒になってからでないと聖堂内に入れなかったから外にあるのだ。 振り返るとファサードにもモザイク画があるが中途半端ガイドさんによるとこれは復元で、つくりはじめたもののあまり評判がよくなくて中断したままなのだそうだ。

****

聖堂を出てポレチュの旧市街の道はもう暮れている 12世紀の「二人の聖人の家」⇒ 木製のバルコニーのある「ロマネスクハウス」→ 半島の一番奥にある民家はどれも歴史的な建物になっている

古代に三つあった神殿の廃墟がのこされていた半島の先端

なんとか日暮れまでに見学を終える事ができた

今晩はここから一時間ほど走ったイストラ半島の南端、プーラの街に宿泊する。

 

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イストラ半島、トリュフの里

2015-11-01 15:49:09 | クロアチア

《手造の旅》クロアチアとアドリア海 三日目 午後

イタリア領トリエステを出てイストラ半島の海岸線を南下。スロヴェニア領を少し走り塩田を目にする 

パスポートチェックを受けてクロアチア領に入りそこからはイストラ半島内陸を目指す。モトヴァンの街が丘の頂上に見えてきた さらに田舎道に入る。貯水人造湖の壁が見えてきたら左へ ブドウ畑の中にあるパラディーニ村 目的の農家・レストランはなかなかきれいなところだったすでにテーブルは用意されているが、まずはトリュフの説明から「イストラ半島は三種類の土から出来ていて、トリュフがとれるのはその一つの土からだけ。イストラ半島の中央部 クロトリュフも香り高いが、持ってこられた白トリュフの覆いをとると、まわりがトリュフの香りにそまった価格は質にもよるけれど、この籠いっぱいでなんと百万円ほどになるそうだ。フレッシュなトリュフは十日から二週間ほどしか持たないから、その間に販路にのせなくてはならない。トリュフ農家は見つけるだけが仕事ではやっていけないのである。こちらの家は四十三年前に現在の持ち主の父がはじめたのだそうだ今は五人がトリュフ収穫の資格を持って営業している。しかし地下のトリュフを発見する主役はワンちゃんみんなメスなのだそうだ。愛想のいいのもいれば、じろっと見て無言の子もいます

さぁ、いただきましょう!クリームチーズとトリュフの相性は抜群

このサラミもチーズもトリュフ入りオリーブオイルは新鮮で果実の香りがする 

トリュフ入りはちみつ ワインはここでつくられている白はマルヴァジア、赤はテラン種のもの。ラベルが張られていなくて売るためにつくってるのではないんだそうだ。 メインには、これもトリュフとは相性がよいオムレツを。これだけたっぷりフレッシュトリュフをつかったものははじめていただきます(^^)

ゆうっくり楽しんでから、今日最後の見学地ポレチュへ向かう


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