旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ルクソール~ラムセウム

2016-12-05 12:12:50 | エジプト

ラムセス二世が(さっき我々が訪れた)「ハブ神殿」をお手本にしてつくったとされる葬祭殿

今では一部しか残されていないが、相当な大きさだっただろうことを感じ取れるモノが見られる。

ナポレオンが「発見」し、シャンポリオンが讃えた場所だけあって、今でもフランスの発掘隊が活動していた。

古代のごとく、復元に使う石材を手彫りしている労働者たち。

監督官はアラビア語を流ちょうに話すフランス人↓

だが、ここにあった最大の遺物「赤花崗岩でできたラムセス二世の上半身」は、ロンドンの大英博物館エジプトセクションの中心を飾っている↓

↑胸の穴は、ナポレオンが持ち出そうとして失敗した時につけられたものとされる。成功していたら今頃はルーブル美術館にあったにちがいない。

塔門↓ぐんにゃり曲がったように見えるのは、紀元後27年の大地震の結果↓二千年後までその時の被害の大きさが各所で感じられた↓

この崩落している巨大な肩の部分、すごい迫力↓立っていた当時は「メムノンの巨像」をしのぐ二十メートルを超えるゾウだったと推察される↓

向こう側の日陰では↓

ここにも、ラムセス二世が「お気に入り」だった「カディシュの戦い」を記念する壁画がある↓下は、戦いの場面そのものではなく、ナイルとは違う大河チグリス・ユーフラテスにであった様子↓川が二本に分れているのが表現されている↓

祭りで厨子を乗せた船を運ぶ祭列↓

 

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ルクソール~ハブ神殿

2016-12-05 09:02:37 | エジプト

ハブ神殿は、今回のルクソール見学でいちばん興味深く楽しめた場所。有名な場所が見どころとは限らないと、いつもながら思い知らされた。

 

**東岸のホテル、朝。部屋からの眺め↓

 

 

活気ある朝の街。子供たちだけで安心して登校できるのは、それだけで安心できる街だということ。

 

 

 

ナイルの西岸へ渡るととたんにのんびりした雰囲気になる。ハブ神殿のある村に到着。村長がやっているという小さなホテルが遺跡の入口にあった↓

 

 

時間のない日程のグループはここには来ないから空いている↓

 

 

入口左右の壁が高い。これでもオリジナルの半分と推察されているそうな↓

 

 

画かれた王=ラムセス三世は、ひと目で異民族とわかる捕虜を従えている↓

 

 

戦いの神、雌ライオンの姿をしたセクメト神の像↓ラムセス三世は武闘派の王様であります↓

 

 

巨大な塔門が姿をあらわした↓

 

 

 

↑壁に見える縦のくぼみは、杉の木でできた旗竿を立てていたと推定されている。このくぼみがただ「くぼみ」をつくったのではなく、ピラミッド型(二等辺三角形)になっているのは指摘されないとなかなか気づかないだろう↓

 

 

 

ラムセス三世はリアルに勝利の後の敵に対する処置を刻んでいる。殺した相手の数を数えるために、切り取った「手」を山積みにしてある↓

 

 

さらに、手を切り取られる異民族の捕虜(髭があり、あきらかに顔が違う)↓後ろに斧をふりあげる兵士↓

 

 

「手」だけでは満足しなかったのか、「舌」まで王の前に積み上げられている図↓

 

 

「手」も「舌」も、相手が男(兵士)かどうか断定できないと思ったのか、ついに「男根」まで↓

 

 

こんなリアルな戦後処理の様子を画かせたラムセス三世の意図は何だったのかしらん。

 

★「ハブ神殿」という名前は、王ではなく神殿建築の技師だった神官アメンホテプ・ベン・ハブー(アラビア語の呼び方で「アメンホテプの息子ハブー」)に由来する。 あの「メムノンの巨像」の後ろにあった巨大な葬祭殿も彼の建築とされている。死後も讃えられて、この神殿のあるエリアは「メディネト・ハブ」=ハブの街と呼ばれるようになった。そして、ここにある神殿はいつしか「ハブ神殿」と呼ばれるようになったそうな。

 

よく復元されているし、色も各所に残っている↓見上げる天井部分は特に↓

 

 

★1804年ジョン・ゴードンの落書き~柱の一角に、19世紀はじめの「落書き」をみつけた↓

 

 

ナポレオンと戦争していた時期のイギリスからも観光旅行?→こちらにもう少し書きました

 

 



神殿の修復は今でも続けられている。この塔門も最近組み上げられたものように見える↓

欧米人の女性が長い梯子をかけて神殿の壁を刷毛でクリーニングしていた↓


ルクソール西岸における屈指の見学すべき場所であります。

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ルクソール~ルクソール神殿夜景

2016-12-04 17:06:23 | エジプト

エジプトの遺跡観光は夕方から夜がいちばん美しい。ルクソール東岸のルクソール神殿

 

 駐車場はさらに遠くなっていた入口へ ↓

ライトアップされたスフィンクス参道はカルナック神殿とつなげるようにつくられていた。今はとぎれとぎれだが、こうして見られるように復元されている↓

この位置からふりかえると、神殿の入口で、二本あったオベリスクのうちの一本だけが残されているのがよく分かる↓

右側・なくなった方のオベリスクが、パリのコンコルド広場に建てられているのは、略奪されたのではなく、当時エジプトを支配していたモハメド・アリがフランス、イギリス、アメリカに贈ったから。「オベリスク外交」と呼ばれる。

※パリのコンコルド広場のものは有名で誰もが「ああ、あれね。」と言ってくれそうだが。ロンドンのもの=「クレオパトラの針」は、小さめでテムズ河畔にひっそり立っている。ニューヨークのものは大きいが、セントラルパークの中で探さないと見つからない。

一つ目の中庭に入る↓ と、頭上にネオンが見えてきて、えらく高い位置に空中に浮かんだような入口がある↓

これは13世紀に建築されたアブ・アル・ハッジャージ・モスク。彼がここに埋葬されることを希望したのだそうだ。遺跡を覆っていた土が取り除かれた後も、このモスクだけは移転させることができなかった。だから、かつての入口が空中に取り残されてしまったのでありあります。この下にもきっといろいろ埋まっていることでしょう↓

巨大な列柱は上部の方が劣化している。つまり、そこから上がずっと土の上にあったということ。19世紀の落書きも今ではとても手の届かない場所に見える。像の首も、高いところほど壊されている。

前庭から奥へ進むと巨大な柱が見えてきた。奥にもさらにたくさんの柱が林立している↓写真下ではあやしげな服装の人物がエジプト人相手になにやら説明・話し込んでいる。小耳にはさんだガイドさんは「宗教は今でもとても強いです。彼らがパワースポットと言ってこの遺跡で儀式をはじめると、コワい雰囲気ですよ」とコメント↓

三千年の間、立ちつづけてきた列柱↓

なんと建設当初に五メートルもの基礎を置いていたので、びくともしなかったのだそうな。何事も基礎が大事なんですね。

過ぎてきた方向を振り返ると↓

再び奥へ進む。

至聖所は巨大な柱の囲む中庭から、ぐっと小さくなった、さらに奥にあった。アメンホテプ三世(第18王朝、紀元前14世紀)が、彼の出自の正当性を表すレリーフがおもしろい。彼の父はトトメス四世だが、母ムテムイア(=モテモヤ)は外国人(ミタンニ=今のパレスティナからシリアあたり)であったとされる。いわば妾腹であった彼は、「自分は神の子である」と主張するために、母ムテムイアが、アメン神と愛を交わす場面を刻ませた↓下のレリーフで左のムテムイアの足と右のアメン神の足が交差して描かれ、アメン神がムテムイアの口に生命のカギアンクを入れている↓

アメンホテプ三世は明日見学する予定の場所にもたくさんの像があるが、どうもアフリカ人的な顔立ちをしていたようだ。

「ハーフ」だということにコンプレックスと誇りをもっていたのかもしれない。だから自分の地位の正当性を表すこんなレリーフを刻ませ、ことさら巨大な神殿を築かせ、結果的に四十年近い統治を全うしたのではなかったか。※明日の日記に巨大な像の頭部載せます

アメンホテプ三世の刻んだレリーフの意味は、一千年後にここを訪れたアレクサンダー大王も理解していたのだろう。この至聖所の外壁に、自らをエジプトの王としてカルトゥーシュ(エジプト文字の王の名前)を刻ませていた↓ギリシャ系のアレクサンダー大王が、最後のエジプト王朝=プトレマイオス朝のはじまりとなった↓

同じ参道を戻っていく途中にあるこのカップルの像は、ツタンカーメンとその妃アンケセンアメンとされている。後のラムセスなどが、妃を自分の足元に小さくしかあらわさなかったのに比べると、自分と対等の大きさに刻んでいる↓

***

18時半、ホテルへ帰着して夕食。長い一日になりました。おやすみなさい。

 

 

 

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ルクソール~クルナ村の貴族の墓

2016-12-04 02:38:12 | エジプト

ルクソールはエジプトでいちばん見どころの多い街。今回は比較的時間がある行程なので、通常あまり行く事のない「貴族の墓」も見学する。そこは、墓泥棒の村クルナのあった場所である。

六年前にはまだ村が残っていたが、ほぼ今回は完全になくなって、村の下に隠れていた墓の入口がそこここに口をあけていた↓

●神官ラモーゼの墓、 ウセルハト それにメンナの墓の三つを、午前中に見学。全部で174基が見つかっているそうだが、七百以上あるという説もある。・・・確かにあるかもしれない。

遺跡も面白いが、かつてあった村の遺構が、村があった時代を知る小松には、複雑な心境にさせる。こういった日干し煉瓦の壁とか↓かつて村の路地で、子供たちがわーきゃー遊んでいた場所なのだ。

ぽつんと残されたお土産物屋とか↓

★メムノンの巨像は、以前と変わらなかった。しかし、その背後の葬祭殿の発掘は進んで、掘り出された座像が何体も復元されて姿を現している↓ふたつの巨像の間・奥にみえる座像、六年前は復元されていなかった↓2010年に同じ場所で撮影した写真がこれ⇒我々が十分で写真を撮って通り過ぎてゆく壁の向こうで、十年いやもっと長い時間地道な発掘・復元の作業をしていた人がいるのです。

※上の2010年の写真↑↑と、2016年の写真↑、見比べていてもっとみえてくるものがあった。別のところに書きます。

「メムノン」とは、トロイア戦争でアキレスに殺されるエチオピアの王。彼の母は曙の女神エオス(オーロラと同じ)なので、朝日に照らされたこの像が発する奇妙な音は、メムノンのすすり泣く声だというのである。

その声はAD27年の大地震で像にひびが入ってから聞こえてくるようになった。ローマ皇帝たちはエジプトへやってくると、この巨像の前で宿泊し、その「声」を聴くようにしていたのだそうな。

だが、セプテミウス・セヴェルス帝がよかれと思って修復してからこの声は聞こえなくなってしまったそうな。右の像の上半分がその時の修復の跡。

 実はこの像はアメンホテプ三世の像で、向かって左の像の右足には、彼女の愛した妃ティの姿が彫られている↓

**さて、昼食。今日は近頃ルクソールの名物になったという「イカのタジン鍋」煮込み↓

紅海からはこばれたイカをつかっている。

***午後は再び「貴族の墓」へクルナ村の「残滓」が見えてきた⇒

かつての村の坂をぽつぽつのぼってゆく。有名な観光地ばかりかけまわっていては、こういう雰囲気はあじわえませぬ↓

★★★センネフェルの墓は、これまで見てきたどの貴族の墓でも見たことがない装飾がされていた。

アメンホテプ二世の治世下(第18王朝の紀元前1439-1413)、「南の街の市長」というタイトルで王の信頼が厚かった人物。この階段を下りてゆく⇒ 降りて、さらに下へ。振り返ると そして入った部屋の天井は・・・おお、ここは葡萄棚の下の様ではないか↓

ここは「ワインの墓」と呼ばれている。削りだした天井のでこぼこを利用して、あたかも葡萄の枝がひろがっているような表現だ。センネフェルと言う人は王の葡萄園の管理者でもあったから。色彩は品良く・保存状態もかなり良い↓

あとから資料を読んでいると、ここにはセンネフェル本人は埋葬されなかったのではないか、ということ。棺が置かれた形跡もない。センネフェルは王の特別なはからいで、王家の谷の一角の穴に埋葬された可能性があるのだそうな。

★レクミラの墓 同じく第18王朝でトトメス三世下に働いた高官。  脱穀の図↓

 

 

キリンが登場する↓

短い時間に合計六つもの貴族の墓を見学したが、それぞれに個性がある。それは、そこに埋葬される予定の個人が、それぞれ違う人生を歩んでいた証なのだろう。

**午後三時、ホテルにチェックインして、夕方まで休憩。

夕暮れてゆく頃、ルクソール神殿へむかった~次ページへ続く

 

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羽田夜発✈ドーハ経由✈ルクソール到着

2016-12-03 22:34:05 | エジプト

羽田を深夜に出発するカタール航空を利用した。※エジプト航空の直行便は、まだ週一便しか飛んでいないので、今回の11日間の旅には使えないのであります。

ドーハまで12時間弱。ルクソールへ外国から入る事の出来る数少ない直行便があるので選んだ。カイロにつくよりも半日から一日は実質的な時間が確保できる。

でも・・・羽田からの出発が遅れて、ドーハでの乗継時間は五十分ほどしかなくなった。

セキュリティはあるが、かなり形式的。カバンの中の水も誰もとれれないで通過。

ようやくルクソール行の出るD21に到着 バスで飛行機へ

飛び立つと、眼下にドバイにも負けない進行中のプロジェクトがみえた↓

さて、最後の最後に搭乗した小松は入口で別の搭乗券を渡された。すわってみると、三列目。あ、この席って・・・ずいぶん楽。食事も豪華。前菜にはギリシャのヨーグルト。パンも暖かく↓ワインは頼まなかったけれど、いろいろチョイスはあり↓紫色の飲み物は、「ういきょう、ビート、生姜のエネルギードリンク」身体によいものはおいしくない?↓

メインコースには、アラブ風のパンだと説明があったNakhiを選んでみた↓となりのスープをつけてたべるのだそうな↓

そうこうしているうちに、飛行機は紅海からアフリカ大陸の上空へさしかかる↓ルクソールは地図で見ると案外海から近い。中王国時代には紅海からナイルまでの水路を築いた王もいたのだと、後から知った。

ついに、ナイル川が見えてきた↓

六年ぶりのエジプト、ルクソールに到着!朝九時、気温は15℃ほど、きりっと乾燥した少し冷たいぐらいの朝の空気である↓

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