旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ル・ピュイ・アン・ヴレを歩く

2018-05-03 11:11:11 | フランス
朝食の席できのうのチーズ「サン・ネクテール」を

ル・ピュイの旧市街はローマ時代以前から同じ場所にある。ついつい高台の教会を目指しがちな我々観光客を、ガイドさんは「下の町」の旧正門のところへ案内してくれた↓

丘の上にある宗教関係者の地区と、下の一般人・商人の地区とははっきり分かれていたそうである。
↑現在見られるものは1533年にフランソワ一世王が来るときに改修された15世紀末から16世紀はじめにかけての建物とされる。
●パンサック通りはずっとメインストリートであり続けている↓その名前は実際にパン屋があったからだそうな。

通りの途中の広場には小麦を商うマーケットがあったという
古代のもの?↓


あきらかにルネサンス時代の装飾↓彫刻細工をする職人の家だったそうだ↓宣伝ですね

上部の町との境界だったのだろうか、門がある↓

路地路地から上を覗いていると、「フランスの聖母」の赤い姿が見えた↓

ル・ピュイは刺繍でも有名↓


下の街●「プロ広場」↓巡礼の集まる広場。囲むたてものは様々だがどれもかなり古そう。

1246年につくられた最古の噴水がある↓水場で休む巡礼たちの広場だったのだ

フランス側巡礼の道の地図↓黄色く塗られたのがこのル・ピュイからはじまるルート

↓左の赤いビルに小さく「サンジャックの道」と書かれた矢印が見える↓



端正で無個性な市庁舎のたてものがある●マルテューレ(殉教者)広場↓

ここは革命時代ギロチンが置かれた場所でその時代に合計四十一人が処刑されたと伝わる。
巡礼者たちの信仰を集めていた大聖堂の「黒い聖母」も、革命時代には引き出され装飾をはがされ、ここで偶像として焼き尽くされたのだそうだ。第一次大戦の戦没者慰霊碑もここに置かれていた↓


●ヴゥルヴェニーというお酒はこの町の名物なのだそうだ↓

薬草を入れた蒸留酒といったかんじ。辞書でしらべてみると、日本語で「クマツヅラ」という植物の名前だった。


きのう夕方訪れた坂道にたどりついた↓
この少し開けた場所を●「テーブル広場」「テーブル通り」という。テーブルが並んでいたからついた名前だというのは分かるが、そのテーブルが何のためのものだったのかは、二つの説明があった。ル・ピュイの出している印刷物は「巡礼たちに宗教関連のグッズを売っていた」というもの、ガイドさんは「遠来の人々の為に通貨交換をしていた」という。両方の用途でテーブルが並んでいたのでしょうね↓

今日は聖堂も開いている時間↓この扉は12世紀の●ヒマラヤ杉の扉、装飾が興味深い↓

なんと、アラビア語まで刻まれているのだ↓

12世紀には、スペイン南部はまだまだイスラム教徒の支配地域。
職人はイスラム教徒だったのではないかという説もある。

この時代、北スペインのサンチャゴへの巡礼はピークを迎えており、増え続ける巡礼を迎えるために階段の上に大規模な屋根が拡張された。
フレスコ画のある部分は拡張前からの部分↓

振り返ると、サンチャゴへの道↓


★献堂縁起
西ローマ帝国の末期、熱病を病んだ女が石置き場へやってきて治癒を祈った。
聖母が現れ、彼女はいつのまにか真っ黒な古い石の上で眠り込んでしまった。
目覚めると病は癒えていた。
司教ジョルジュの元へ行き教会をつくってくれるように願うと、五月だというのに雪が降り出し、一匹の牡鹿が現れて将来の教会となるべき形を雪の上に描いた。※夜の光のショーのオープニングでこの話が暗示されていた

熱病を癒した黒い石は聖なるものとされ、現在も奥の礼拝堂に安置されている。

是非見てみたかった。目の前にすると神秘的な雰囲気のある巨石だった↓
古代の巨石文化があってその名残の石だという説もある

この石は20世紀末までは、教会に入ってきた正面のところに置かれていたのだそうだ。

教会内部「思ったより新しい建物だ」という印象。現在でも多くの巡礼が訪れるのだから、大規模な修復が必要だったのだろう。だが、正面向かって左奥・北側のカギのかかったドアからいつもは上がれない部分に上って印象は一変した

身長五メートルの大天使ラファエルが見下ろしている↓

あきらかにロマネスク時代(13世紀ごろ?)のフレスコ画
だが、このフレスコ画の下にも、もっと古い時代の絵が隠されているのが分かる↓


教会堂内を出る
このぼろぼろのライオンは4世紀ごろのものと推察されているのさそうだ↓

フランス革命時に削り取られてしまった彫刻↓

↓鐘楼↓この下にある回廊も、午後に入ってみようと思う↓


さあ、いよいよあの岩の上の礼拝堂へのぼろう↓


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ル・ピュイ・アン・ヴレ到着

2018-05-02 19:19:19 | フランス
突然、道路の左手に見えてきた岩山、まったく予期していなかった↓

ドライバーさんが我々の様子を見て止めて止めてくれた。
案内版にポリニャック城と記されている↓

標高七百メートルほどの岩山は高さ百メートルの崖で囲まれている。
帰国後に少ししらべてみると・・・
ポリニャックは少なくとも十一世紀以前からこの地の豪族の拠点で八百人以上の兵士を収容することが出来た。
子爵、つまり男爵より上で伯爵より下というあたりの爵位を得ていたフランス王の臣下。
しかし、フランス王(ルイ六世やルイ十一世)に対してよく反乱を起こしていた。

1532年7月17日 フランス王フランソワ一世が訪問。
子爵位を安堵され、王は彼らを「山の王たち」と呼んだと伝わる。

宗教戦争、その後も王党派にうまく属し生き延びたが、17世紀にポリニャック侯が本拠地を不便な岩山から平地へ移す。フランス革命時代にはすでに荒廃していたといわれ、国家に売却された。
1830年にポリニャック家が買戻し修復をはじめる。1840年には歴史的建造物に認定される。
いつか、訪れる機会があるだろうか。

***
「ル・ピュイ」という地名は、突き出した岩塊を意味する。この地域には火山がつくりだした岩山がいくつもある。
その上にいろいろな建物や像が築かれている。

街のはずれにこんな像がみえた↓

キリストの父ヨセフの像。翌日ガイドさんに教えてもらって知った。
↓こちらは出発前から調べがついていた「フランスの聖母」という巨像↓

クリミア戦争でロシアから奪った大砲で鋳造されたもの。明日、訪問できるかしらん。
***
ホテルは旧市街にいちばん近い、出来るだけ快適な設備のホテルを選んだ。ホテルの窓からの眺め↓

この時期日暮は21時ぐらいなので、到着してからも旧市街へ散歩に出る。
十五分ほどでサンチャゴ巡礼の起点にもなっているル・ピュイのノートルダム教会が坂の上に見えてきた↓

けっこう急な石畳をのぼってゆくと、夕方の太陽がファサードを照らしはじめる↓

足元に巡礼路をあらわすホタテ貝↓

振り返ると巡礼路が黒く道しるべになっていた↓


教会はもう閉まっていたが、建物に沿って裏に歩いていると、不意に頭上に赤い聖母の巨像が姿をあらわした↓

さっき遠望していたあの像がこんなに近くに見える。
これなら明日登れそうだ。そう、なんと、あの像は顔のところまで登れるのだ!

さらにいくと、旧市街から一度谷へ下りなくてはいく事ができない「サン・ミッシェル・ギュイユ礼拝堂」が見えた。
この景色こそ、今回の旅を企画する大きな動機になった↓ついに、やってきた(^.^)

明日の訪問が楽しみです(^.^)













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イソワールのサン・オストロモワンヌ オーヴェルニュ・ロマネスクめぐり⑤

2018-05-02 15:15:15 | フランス
イソワールはこれまでの山の中の村とはちがった。気温も少し暖かく感じる。車は教会のすぐ横に止まった↓

オストロモワンヌは三世紀にこの地方にキリスト教を伝道した主要人物で、クレルモンの初代司教とされている。「変わった名前よねぇ」とフランス人ガイドさんも言う。「南から来た人」という意味のあだ名だったのかもしれない。

これまで見てきた教会と同じ構造だが、後陣壁面に星座のロマネスク彫刻があるのがおもしろい↓


火山の黒い石をつかった幾何学模様


驚かされるのは、内部の彫刻が「建造当初のように」? 彩色しなおされていること↓

↓最後の晩餐↓

↓エルサレム↓

復活したキリスト↓

彩色したのはアナトール・ドーヴェルニュ(1812-1870)という画家であり考古学者でもある人物。
若くして成功し、二十代でルーブル美術館に作品が展示された。宗教建築のためのフレスコ画も手掛けイタリアに住んだ。

この教会を彩色したのは1855年。
かつて彩色されていたものだとはいえ、19世紀当時も彩色しなおすことは議論の的だった。
そこであえて、自分の考え方でこれだけぎっちりと彩色してしまうとは。
四十代半ばのアナトールは、よほどの自信家だったように思えてくる。

彼は、今回訪れたクレルモンのノートルダム・デュ・ポール教会地下聖堂の修復も手掛けている。
彩色しないであのくらいがちょうどよかったのではないだろうか。
中世彫刻のほとんどすべてが鮮やかに彩色されていたというが、それを実際に「復元」してしまうとこんな風になるのか。

***
イソワールは教会だけの町ではない。かつては新教徒も多く、商人地域の代表のように建てられた塔が残されている↓

この塔、1480年に建造されたもの。
登れる?登ってみましょう!(^.^)
こちらに写真と少しの歴史解説を載せました。


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サン・サトゥルナン オーヴェルニュ・ロマネスクめぐり④

2018-05-02 14:14:14 | フランス
「フランスの美しい村協会」にも加盟していると知る前に、その佇まいにわくわくした

教会と城が程よい徒歩圏にある
坂道の路地に鐘楼が見え隠れする

建物の入口が歩行面より少し下にあるのは古い街でよくみられる



この村は北スペインサンチャゴへの巡礼路のひとつに位置しているので、巡礼のみちしるべであるホタテ貝マークが見られるのだ

さぁ、もうすこし坂道をのぼろう
この村の教会はいきなりあらわれる。近すぎて全景がとらえにくい



きのうと今日見てきたロマネスクの教会と同様のスタイルで、同じ時期に、同じ職工集団がかかわってつくられたと推察されている↓

入口の木製扉の錬鉄装飾も今朝見たオルシヴァルと似ている。でも、こちらはなんだか後補のように感じられるのだが…




↓正面祭壇の階段に開けられた穴は?

地下聖堂でともされた蝋燭のあかりが漏れてくるように工夫されていた。他にあまりみたことがないスタイル。

オルシヴァルにあったものと似たスタイルの、同じ十二世紀からの木彫聖母子像↓


↓地下聖堂に置かれていたキリストの頭部は、16世紀ルネサンス期のもので、もとは壁にかかっていた象の一部だと推測されている↓
先ほど主祭壇の階段に開けられていた穴は、上部からの光を取り入れるという効果もあるのがわかる↓

どの教会もそうだが、何百年も同じスタイルで何事もなく現代まで受け継がれてきたわけではないのだ

すぐ外の墓地付属の礼拝堂↓


****
↓村には不似合いなほど立派な城。ここで、オーヴェルニュ伯ジャン三世の娘として生まれたマドレーヌはイタリアのメディチ家に嫁ぎ、その娘のカトリーヌがフランス王アンリ二世妃となる。
カトリーヌはお母さんがフランス人だったのだから、嫁ぐ前からフランス語はかなりできたのじゃないかしらん。ああ、でも、母のマドレーヌは出産直後に伝染病で亡くなっていたんだっけ。母と共にイタリアにやってきた女官たちから亡き母の話はきかされただろう。フランスにやってきたカトリーヌは母の生まれ故郷のこの村を訪れたことがあるのかしらん。

城はいつも公開されているわけではなさそうだ。入口前までいって坂道から教会をふりかえった↓


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サン・ネクテール オーヴェルニュ・ロマネスクめぐり③

2018-05-02 12:12:12 | フランス
オルシヴァルからミュロルまでも山道を走る。氷河に削られたU字谷↓

興味深いのは向かって左手表面は人が何百年にもわたって採石・石を削りだしていった跡がみえること↓


小さな村の墓地の円形礼拝堂も確実にロマネスク↓

**
不意に岩山の上に古城↓

「ミュロル城」も12世紀からの城、つまり今日見て回るロマネスクの教会群と同じ頃からある。
※近年観光プログラムに力を入れているのがホームページから見られます。
日本のガイドブックにはちっともとりあげられない見所はたくさんあるのですね


サン・ネクテール村が近づき、再び遠望するミュロル城の向こうに雪山が見えた↓
このあたりは標高が千メートル弱になっている

***
サン・ネクテール村のはずれに、周囲を睥睨するように建つ1160年からの教会↓

三世紀にこの地に布教にやってきたネクテールはこの地で没し、彼の名前が教会の名前になった

素朴な入口

内部の柱には百三点もの彫刻がある

●ダヴィデの真似をして竪琴を弾くロバ↓

●荒野で修業するキリスト(左)を誘惑する悪魔(右)↓

●ユダの接吻をきっかけに捕縛されるキリスト、抵抗してローマ兵ひとりの耳を切るペテロが左にみえる↓

●首に縄を点けられた猿のような人…クレルモンでまったく同じデザインを見た。同じ職工集団がこの教会にも参加していたというのがはっきり分かる

●地獄まで行ってアダムとイヴを助け出すキリスト↓この主題は正教会の地域で時々みられる主題だ↓


見飽きない彫刻群…
★彩色が残っているものもあるが、これは12世紀の色ではないと考えるべきだろう


この聖母子は12世紀から伝わるものだとしても↓


格子の向こうに聖人の遺骨↓

↑聖ボディムはネクテールと共に布教していた
↓ネクテール自身の腕の骨↓

****
教会の入口にこんなお土産紙幣を2ユーロで売る自動販売機があった↓


昼食は村のオーベルジュを予約しておいてもらった。車に十分ほど乗る↓

この村の名前は教会よりもチーズの名前として有名だ↓

↓この元納屋だっただろう建物の二階がレストランになっているようだ

「サンネクテールのチーズが見られますか?」とガイドさんが頼んでくれて、すぐに裏の熟成庫に導かれた。
アーチをくぐると…↓

いつごろからこうだったのか分からないという半地下の入口↓

ドアをあけると↓

奥の藁の上に・・・

この農家ではこういう熟成穴を五つ持っているとのこと。
この周辺にはドライブだけしていては見えないこういう場所がたくさんあるのだろうことを知った。

さて、いただきます↓

それぞれのテーブルに農場の牛の名前がつけられている↓

基本は肉がお勧めなのだ↓「霜降り」などではなく、赤身のおいしさが肉のおいしさ

ソーセージにどっかんとつけあわされているのは、チーズとポテトをからめた「トリュファード」↓

川魚カワカマスもしかしおいしかった↓


バスでやってきていた子供たちが食事後さっきの穴倉のまえで遊んでいる↓

売店で売っていた「サンネクテール」↓

明日の朝食の為に買った方もあり、さて、どんな風に味わえるか楽しみ(^.^)

オーヴェルニュはチーズの王国


次はサン・サトゥルナンへ向かいます
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