旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

サン・クロワ・アン・ジャレ(Sainte-Croix-en-Jarez) 五百年間修道院だった村

2018-05-04 12:12:12 | フランス
山道をくねくね登っていくと、突然要塞のような壁が姿を見せた↓

現代でも田舎の村、十三世紀にどんな場所だったのだろう
ただの田舎の村ではない立派な城門がそびえている↓

シャルトルーズ会(日本ではカルトジオ会というほうが通りがよいかもしれない)の僧院としてこの場所がつくられたのは1280年と、縁起がはっきりしている。

十字軍へ行った夫・ギヨーム・ド・ルシヨンが亡くなり(消息不明)、その妻ベアトリクスが神に仕えて余生を送るのを望んで創立。
自らが院長として暮らし、ここで亡くなった。彼女が葬られた場所も分かっている。その礼拝堂に描かれたフレスコ画↓
↓いちばん下に横たわるベアトリクスの亡骸、その上に天使たちの持つ布に乗って天上へ引き上げられていく、手を合わせた彼女の魂↓

↓その上の場面では右下に手を合わせる彼女の姿↓左手に聖母、とりなす聖人「どうか彼女を天国へ迎えてあげてください」↓

この古い礼拝堂は生前の彼女が祈っていた場所。しかし、他者と顔を合わせるのを極端に制限するカルトジオ会の厳しい戒律のために、壁の上部にあけられた小さな窓からミサに参加していたのだそうだ↓その穴が今でも残されている↓


「フランスの美しい村」協会に加盟しているだけあって、ただ訪問するだけでも価値がある。しかし、ガイドしてもらうチャンスを逃す手はない。
午前十一時からのガイドツアーに間に合った我々は二時間近く案内してもらった↓
↓カルトジオ会士のシンプルな白い修道服↓

**

ル・ピュイを出発した我々は十時半過ぎに城門の前に到着した。
ミシュランガイド載っている程度の知識しかなかったので、インフォメーションに飛び込んで英語の情報を得ようとしたら、「十一時からガイドツアーありますよ」という。「英語の案内もありますか?」と問うと、「じゃあ僕が両方やります」と言ってくれたのだった。フランス人四人と我々六人、フランス語と英語とで案内するので予定の倍近い時間かかってしまったのだが、おかげでこの場所の価値がよく理解できた。

城壁内の敷地は三つに分かれている↓最初の門をくぐって現れる広い中庭は「ブラザーたちの庭」だった↓

修道士にはファーサーとブラザーの二種類があるのだと知った。
○ブラザーは壁の外の農場も耕す、比較的外部との接触もある人々
城壁の外の畑に出る道↓

カルトジオ会は自給自足が原則なので大工仕事や鍛冶仕事を担当する修道士もいた。
この中庭にはそういった部屋もあったのだ。
ひとつの完結した村のように暮らしていた修道院はフランス革命で解体され、四十一世帯に分配。
本物の村になった。それ以来の村役場が現在でも機能している↓

修道院に入った家族に面会にやってくる人も当然あった。山道を踏み分けてはるばるやってきたそういった人と過ごすための部屋もあった。
○ファーザーは修道院の奥に暮らし、外部とほとんど接触せず、祈りとより頭脳的な労働をする人々
その世界と外界とがやり取りするための窓が開いた扉↓

この奥の路地にはいっていく…

↑ファーザーのエリアとブラザーのエリアの間に見えた塔が教会↓
↓二十年ほど前、この小さな広場を発掘したところ何百という骨が出てきた。修道士たちが葬られていたのだ↓

十三世紀末からフランス革命の十八世紀末まで、五百年間である

十三世紀からの古い教会は火事に遭ったのだが、残された一角に冒頭の創立者が葬られていた

火事を機につくられた新しい教会は今でも教会として使われている↓

「ここにはキリストよりも、カルトジオ会の創立者である聖ブルーノの像の方が多いのですよ」
と、ガイドさん。

お酒をつくっている修道院は多い。ここも、カルトジオ会の名前を冠した独特の蒸留酒がある。
19世紀ごろの設備と宣伝パネルがあった↓

つまり、修道院が解体されて村になってからも製造は受け継がれていたということか。
↓インフォメーションでも売っておりました↓


***
いちばん奥の「ファーザー」たちが暮らしていたエリアへ入ってゆく
最初の「ブラザー」たちの中庭よりも少し小さめだが静謐な雰囲気↓

「ファーザー」ひとりひとりには、「ブラザー」の十倍の広さのスペースが確保されている。
その部屋のひとつに入る↓
入り口の扉も修道院時代からのオリジナル。「どうやって開けるかやってみてください」↓

メンバーのひとりが試すと・・・あ!開いた↓

回すのではなく、立に動かしてドアを開けるカギだった。

扉の横にある四角の穴は?↓

開けても中に「ファーザー」と顔が合わないようにわざわざ横に曲げてある↑
食事をここから提供していたのだが、当時使っていた「おかもち」を再現したものがこれ↓

↓部屋に入る↓立派な家具があるゆったりしたスペース

「ブラザー」の部屋の十倍もある敷地の模型↓

裏に自分専用の畑がある↓実物がこんな↓

↑自分の食べる野菜などを育てていたのだ

日々の仕事は「ブラザー」よりも知的な写本など↓

読み書きが出来る人も少ない時代、ラテン語の本を装飾文字を使いながら一冊一冊つくりだしていた工房だったのか。

****
回廊の突き当りはちょうど「城壁」に開けられた窓↓

城壁の外で行われている農作業を眺めるのが唯一の外界との接点だったのかしらん↓と思ったら…
↓外から見たところ↓

「『ファーザー』の暮す部屋にある外側に向かって開けられた窓は、フランス革命後に一般住居になってから開けられたものでした。」
と、解説がついたのだった。

*****
すっかり遅くなってしまった昼食、城壁のすぐ外にある小さなホテルのレストランにて



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ル・ピュイ 大聖堂「光のショー」

2018-05-03 21:21:10 | フランス
午後九時少し前に大聖堂前に到着した↓この明るさで21時からの光のショーははじまるのか?

大聖堂のファサードをカンバスに色とりどりのライトを照射する光のショー、開始時間は「暗くなってから」としか書かれていない。

・・・案の定九時になっても何もはじまらなかった。
近くを散歩。
不意に「フランスの聖母」が大聖堂のうしろから顔をだした↓

全身の見えるところまで行った↓

そこまで行くと、崖の上の礼拝堂もライトアップしていた↓

***
午後九時半、なんの予告もなく大聖堂に映像が照射されはじめた。静かに物語がすすんでゆく。音はない。周囲は住宅街でもある。

あ!鹿だ↓

これ、大聖堂の縁起を知っていれば意味がわかる※こちらのページの後半に少し書いておきました

ル・ピュイ名産のボビンレースで大聖堂をあらわす↓


イベリア半島のイスラム文化から影響を感じさせるシマシマのデザイン。かつてはもっと色鮮やかだったのだろう↓


他にもさまざまなエピソードが展開されているのだが、分からないものが多かった。色と展開をにみとれて…

十五分はすぐに過ぎてゆく。一言の説明もなく、十五分毎に同じ映像が繰り返される。

プロジェクトマッピング「音と光のショー」はこれまでも見てきた。シャルトル、ランス、ルーアン、ベルン(スイス)など…
夏になるとずいぶん人が増えるそうだが、今日のル・ピュイはいちばん静かなものだった。

歩いてホテルまでもどろう。坂の上に青く光るファサードが見えた↓

ル・ピュイのまちでは五か所?で同じように光のショーが行われている↓こちら市庁舎↓

↓ホテル前の広場



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ル・ピュイ 大聖堂付の回廊と食堂

2018-05-03 15:15:15 | フランス
ル・ピュイの町を見下ろす赤い聖母像から坂を下りて再び大聖堂までもどった↓

いつでも開いている聖堂の横にある、時間限定の回廊に入った↓※ランチはここへ入る前に行ったのだけれど後に載せます

十二世紀ごろの回廊から、さっきのぼってきた「フランスの聖母」が見える↓

この回廊のシマシマ模様はスペインはコルドバにのこされているメスキータ(モスク)を思い起こさせる※こちら日記の写真に写真を載せております

中世の宗教的フレスコ画も見所だが・・・↓

この回廊で見るべきは↓自由奔放なロマネスクの生き物たち↓

言葉で解説してくれているものは残っていないのだが、現実の人を風刺しているのだろう↓

↓カッパみだいだけれど女性の服装をして高そうな装飾品をつけている↓


併設の宝物館にはフランス革命時に焼かれてしまった「黒い聖母」を復元したもの↓

↓教会の持ち物というよりもどこか北方バイキング的な象牙の細工↓


***修道院には昔から病院がつきもの。HOTEL=DIEU(神の家)という↓

ここの病院は中世から1980年代まで運営されいた。今は展示会場・会議場として使われているが名前はそのまま使われている。
一角にあるレストランが気になった↓幸い手描きで「開いてます」と書かれている↓

わかりにくい入口、誰もいないカフェ横の階段をあがった二階だった↓

地元名物レンズマメとソーセージ(酸味がある)↓

このトラウト・サーモンおいしうございました↓

洋梨のコンポートおいしく 
カフェのカップが良い感じ↓

ほめたら「数年前にピカソの展覧会をやった時に買ったんだ」と嬉しそうに話してくれた。
「あとで、サプライズあるよ」と言ってくれたマスター、会計をおわるとひとつプレゼントしてくれました↓

記念になります、また来ます(^.^)
***
教会から坂を下りたところで「レンズマメ売ってます」の宣伝看板↓


レンズマメ入りのチョコチップクッキー買いました
今晩は大聖堂のライトアップを観に行きたい。陽が長いので21時ぐらいでようやくはじまるかどうか。
それまで休憩するために、夕飯は各自買い出しの軽食とした。スーパーへ入るといろいろおもしろい↓おや?これは日本発の…↓

こんなのも↓日本食はもうすっかり定着しているようだ

地元の豊かな野菜?↓いえいえ、世界各地からやってきた野菜。表示、左からフランス、アメリカ、ペルー、コート・ジボワール(アフリカ)、ペルー↓


過激派に事務所を襲撃された風刺新聞「シャルリ・エブロ」は、まだまだ頑張っているようだ↓


・・・日が暮れるまで休憩して、がんばって大聖堂のプロジェクト・マッピング観なくちゃ!
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ル・ピュイ「フランスの聖母」に登る

2018-05-03 13:20:27 | フランス
モン・アニス溶岩の柱の上に、台座からの高さは22.7メートルの巨大なマリア様が立っている↓台座近くの人間と比べてみてください↓

この岩山の上にはかつてドルメン(古代の巨石信仰に使われた人口の構造物)があったと考えられている→右の写真ではまだなにもないように見える中央頂上→※大聖堂の中にあった熱病を癒したと伝わる黒い石もそのひとつ

この赤い聖母の巨像は1860年・日本なら江戸末期にあたる時期に建設された比較的あたらしいもの。クリミヤ戦争中の「セヴァストポリ包囲戦」でロシアから奪った大砲二百十三門が使われている↓近くに置かれた大砲に帝政ロシアの双頭の鷲が刻まれていた↓


聖母子は南を向き、幼子キリストが足元のル・ピュイの町を祝福するポーズをとっている。構図はたいへんよく考えられていて、このポーズをしても町から見上げた時に聖母の顔がかくれないようにさりげなくデザインされている↓
ナポレオン三世皇帝から大砲を材料として提供してもらった当時のル・ピュイ大司教が祈りを捧げている↓

**
この像へはル・ピュイ大聖堂の後陣ちかくの出口からでると登り口が近い↓

入場料を払ってのぼりはじめる。道はよく整備されている↓

さっきのぼっていた「サン・ミッシェル礼拝堂」が下に見える↓あちらの方が登るのがたいへんに思えた↓遠景にきのう車を止めて写真を撮ったポリニャック城が見えている↓


835トンの大砲を溶かしてつくられた聖母、その中へ入ろう↓基礎の部分は石積みだ↓エッフェル塔建設の三十年近く前だからまだ鉄骨だけの塔を組むことはしていないのか?
↓十七世紀はじめに北イタリアにつくられたボロメオの巨像を思い出した※先月載せた写真記事をごらんください

★像建設に至る経緯や具体的な方法・経緯がこちらの日本語ページに詳しく載せられていました。一読に値します。
螺旋階段↓

途中の窓↓

いっきにのぼると↓
最後に梯子が待っている↓

聖母の顔の部分↓梯子と後ろに目鼻口↓

冠から世界を睥睨できるのだ↓



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ル・ピュイ「サン・ミッシェル・ギュイユ礼拝堂」

2018-05-03 12:12:12 | フランス
この礼拝堂の写真を見たことが、今回の旅のルートをル・ピュイへ導いた

高さ82メートルの溶岩で出来た柱の上に11世紀からの礼拝堂が建てられている。
ル・ピュイの町からは一度谷へおりなくてはならない。

修道院の跡がある↑屋外にあった展示パネルで昔の様子がわかる↓
1611年の様子がこれ↓

城壁に囲まれたル・ピュイの町の外、左端にこれから登る礼拝堂が描かれている
岩山の下にある小さな集落は、もとはル・ピュイとは別の村だったのだ↓

ここから、265段(とミュランガイドに記された)階段を登りはじめる↓

階段からは頂上が見えない

かつてはこんな広い階段ではなく、手摺もあとから付け加えられたものだと分かる。足を滑らせて転落する人もいたそうだ。途中にある凹みは、巡礼や修行者が寝ていた場所だと説明された↓

今はなくなってしまったがかつてここも礼拝堂があった↓



近くを流れる小川にかかる中世からの頑丈な橋がみえる↓


礼拝堂の入口がみえてきた↓

まずは周囲にめぐらされた道をまわってみた。


かつてはこんな道もあったのかどうか?

いよいよ入口へ↓この彫刻はかなり手が込んでいるし中世のオリジナルの様子がよくわかる↓

↓細部をよく見てみよう↓上部の中央は怖い顔をした天の神?右に天使、左の聖人は誰?
黒い溶岩石を菱形に配置し、赤いレンガ?黄色い石も濃淡をよくかんがえて配色されている↓

↑中央でなく中途半端な位置に開けられた丸い穴は何の目的なのだろう?
↓アーチの装飾がどこかイスラム教のモスクでみられるようなデザイン感覚に思える↓
12世紀はすぐとなりのスペインに洗練されたイスラム文化が残されていた時代だ

堂内入り口↓

それほど広くはなく、岩盤いっぱいに建てられているのでいびつな形をしている。

こんな場所にあることが幸いして12世紀に拡張された当時から基本構造は変えられていないのだろう。
カロリング朝時代(8世紀から10世紀)にあった小さな礼拝堂を拡張している。
↓下の写真で階段を上がった内陣にあたる部分がその古い礼拝堂部分だとガイドさん↓

↓外側を半円形に囲っている列柱とアーチ天井が12世紀の拡張部分か↓


内陣に立って上を見上げると↓どこか東方教会的なフレスコ画が残されている↓

↓内陣の一角に宝物として収蔵されている何かが展示してある↓

ガイドさん曰く1990年代に調査した際に内陣の床下から発見された入れ物か十字架などが発見され、それを展示してあるのだそうだ↓
ちょっとピンとぼけてしまいましたが、その丸い入れ物と素朴な十字架がこれ↓

カロリング朝の時代からだとすれば一千年ちかくも床下に隠されていたものだということになる↓

地元のガイドさんとはここで別れ、しばらくこの空間に身をおいた


明るい光の門のところへ出ると

ル・ピュイの大聖堂とそれを見下ろす赤い「フランスの聖母」が、もうひとつの岩塊の上に見える↓


***
この岩塊、夜はライトアップします↓

さらに、夏はプロジェクト・マッピングのショーも行われます


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