山道をくねくね登っていくと、突然要塞のような壁が姿を見せた↓
現代でも田舎の村、十三世紀にどんな場所だったのだろう
ただの田舎の村ではない立派な城門がそびえている↓
シャルトルーズ会(日本ではカルトジオ会というほうが通りがよいかもしれない)の僧院としてこの場所がつくられたのは1280年と、縁起がはっきりしている。
十字軍へ行った夫・ギヨーム・ド・ルシヨンが亡くなり(消息不明)、その妻ベアトリクスが神に仕えて余生を送るのを望んで創立。
自らが院長として暮らし、ここで亡くなった。彼女が葬られた場所も分かっている。その礼拝堂に描かれたフレスコ画↓
↓いちばん下に横たわるベアトリクスの亡骸、その上に天使たちの持つ布に乗って天上へ引き上げられていく、手を合わせた彼女の魂↓
↓その上の場面では右下に手を合わせる彼女の姿↓左手に聖母、とりなす聖人「どうか彼女を天国へ迎えてあげてください」↓
この古い礼拝堂は生前の彼女が祈っていた場所。しかし、他者と顔を合わせるのを極端に制限するカルトジオ会の厳しい戒律のために、壁の上部にあけられた小さな窓からミサに参加していたのだそうだ↓その穴が今でも残されている↓
「フランスの美しい村」協会に加盟しているだけあって、ただ訪問するだけでも価値がある。しかし、ガイドしてもらうチャンスを逃す手はない。
午前十一時からのガイドツアーに間に合った我々は二時間近く案内してもらった↓
↓カルトジオ会士のシンプルな白い修道服↓
**
ル・ピュイを出発した我々は十時半過ぎに城門の前に到着した。
ミシュランガイド載っている程度の知識しかなかったので、インフォメーションに飛び込んで英語の情報を得ようとしたら、「十一時からガイドツアーありますよ」という。「英語の案内もありますか?」と問うと、「じゃあ僕が両方やります」と言ってくれたのだった。フランス人四人と我々六人、フランス語と英語とで案内するので予定の倍近い時間かかってしまったのだが、おかげでこの場所の価値がよく理解できた。
城壁内の敷地は三つに分かれている↓最初の門をくぐって現れる広い中庭は「ブラザーたちの庭」だった↓
修道士にはファーサーとブラザーの二種類があるのだと知った。
○ブラザーは壁の外の農場も耕す、比較的外部との接触もある人々
城壁の外の畑に出る道↓
カルトジオ会は自給自足が原則なので大工仕事や鍛冶仕事を担当する修道士もいた。
この中庭にはそういった部屋もあったのだ。
ひとつの完結した村のように暮らしていた修道院はフランス革命で解体され、四十一世帯に分配。
本物の村になった。それ以来の村役場が現在でも機能している↓
修道院に入った家族に面会にやってくる人も当然あった。山道を踏み分けてはるばるやってきたそういった人と過ごすための部屋もあった。
○ファーザーは修道院の奥に暮らし、外部とほとんど接触せず、祈りとより頭脳的な労働をする人々
その世界と外界とがやり取りするための窓が開いた扉↓
この奥の路地にはいっていく…
↑ファーザーのエリアとブラザーのエリアの間に見えた塔が教会↓
↓二十年ほど前、この小さな広場を発掘したところ何百という骨が出てきた。修道士たちが葬られていたのだ↓
十三世紀末からフランス革命の十八世紀末まで、五百年間である
十三世紀からの古い教会は火事に遭ったのだが、残された一角に冒頭の創立者が葬られていた
火事を機につくられた新しい教会は今でも教会として使われている↓
「ここにはキリストよりも、カルトジオ会の創立者である聖ブルーノの像の方が多いのですよ」
と、ガイドさん。
お酒をつくっている修道院は多い。ここも、カルトジオ会の名前を冠した独特の蒸留酒がある。
19世紀ごろの設備と宣伝パネルがあった↓
つまり、修道院が解体されて村になってからも製造は受け継がれていたということか。
↓インフォメーションでも売っておりました↓
***
いちばん奥の「ファーザー」たちが暮らしていたエリアへ入ってゆく
最初の「ブラザー」たちの中庭よりも少し小さめだが静謐な雰囲気↓
「ファーザー」ひとりひとりには、「ブラザー」の十倍の広さのスペースが確保されている。
その部屋のひとつに入る↓
入り口の扉も修道院時代からのオリジナル。「どうやって開けるかやってみてください」↓
メンバーのひとりが試すと・・・あ!開いた↓
回すのではなく、立に動かしてドアを開けるカギだった。
扉の横にある四角の穴は?↓
開けても中に「ファーザー」と顔が合わないようにわざわざ横に曲げてある↑
食事をここから提供していたのだが、当時使っていた「おかもち」を再現したものがこれ↓
↓部屋に入る↓立派な家具があるゆったりしたスペース
「ブラザー」の部屋の十倍もある敷地の模型↓
裏に自分専用の畑がある↓実物がこんな↓
↑自分の食べる野菜などを育てていたのだ
日々の仕事は「ブラザー」よりも知的な写本など↓
読み書きが出来る人も少ない時代、ラテン語の本を装飾文字を使いながら一冊一冊つくりだしていた工房だったのか。
****
回廊の突き当りはちょうど「城壁」に開けられた窓↓
城壁の外で行われている農作業を眺めるのが唯一の外界との接点だったのかしらん↓と思ったら…
↓外から見たところ↓
「『ファーザー』の暮す部屋にある外側に向かって開けられた窓は、フランス革命後に一般住居になってから開けられたものでした。」
と、解説がついたのだった。
*****
すっかり遅くなってしまった昼食、城壁のすぐ外にある小さなホテルのレストランにて
現代でも田舎の村、十三世紀にどんな場所だったのだろう
ただの田舎の村ではない立派な城門がそびえている↓
シャルトルーズ会(日本ではカルトジオ会というほうが通りがよいかもしれない)の僧院としてこの場所がつくられたのは1280年と、縁起がはっきりしている。
十字軍へ行った夫・ギヨーム・ド・ルシヨンが亡くなり(消息不明)、その妻ベアトリクスが神に仕えて余生を送るのを望んで創立。
自らが院長として暮らし、ここで亡くなった。彼女が葬られた場所も分かっている。その礼拝堂に描かれたフレスコ画↓
↓いちばん下に横たわるベアトリクスの亡骸、その上に天使たちの持つ布に乗って天上へ引き上げられていく、手を合わせた彼女の魂↓
↓その上の場面では右下に手を合わせる彼女の姿↓左手に聖母、とりなす聖人「どうか彼女を天国へ迎えてあげてください」↓
この古い礼拝堂は生前の彼女が祈っていた場所。しかし、他者と顔を合わせるのを極端に制限するカルトジオ会の厳しい戒律のために、壁の上部にあけられた小さな窓からミサに参加していたのだそうだ↓その穴が今でも残されている↓
「フランスの美しい村」協会に加盟しているだけあって、ただ訪問するだけでも価値がある。しかし、ガイドしてもらうチャンスを逃す手はない。
午前十一時からのガイドツアーに間に合った我々は二時間近く案内してもらった↓
↓カルトジオ会士のシンプルな白い修道服↓
**
ル・ピュイを出発した我々は十時半過ぎに城門の前に到着した。
ミシュランガイド載っている程度の知識しかなかったので、インフォメーションに飛び込んで英語の情報を得ようとしたら、「十一時からガイドツアーありますよ」という。「英語の案内もありますか?」と問うと、「じゃあ僕が両方やります」と言ってくれたのだった。フランス人四人と我々六人、フランス語と英語とで案内するので予定の倍近い時間かかってしまったのだが、おかげでこの場所の価値がよく理解できた。
城壁内の敷地は三つに分かれている↓最初の門をくぐって現れる広い中庭は「ブラザーたちの庭」だった↓
修道士にはファーサーとブラザーの二種類があるのだと知った。
○ブラザーは壁の外の農場も耕す、比較的外部との接触もある人々
城壁の外の畑に出る道↓
カルトジオ会は自給自足が原則なので大工仕事や鍛冶仕事を担当する修道士もいた。
この中庭にはそういった部屋もあったのだ。
ひとつの完結した村のように暮らしていた修道院はフランス革命で解体され、四十一世帯に分配。
本物の村になった。それ以来の村役場が現在でも機能している↓
修道院に入った家族に面会にやってくる人も当然あった。山道を踏み分けてはるばるやってきたそういった人と過ごすための部屋もあった。
○ファーザーは修道院の奥に暮らし、外部とほとんど接触せず、祈りとより頭脳的な労働をする人々
その世界と外界とがやり取りするための窓が開いた扉↓
この奥の路地にはいっていく…
↑ファーザーのエリアとブラザーのエリアの間に見えた塔が教会↓
↓二十年ほど前、この小さな広場を発掘したところ何百という骨が出てきた。修道士たちが葬られていたのだ↓
十三世紀末からフランス革命の十八世紀末まで、五百年間である
十三世紀からの古い教会は火事に遭ったのだが、残された一角に冒頭の創立者が葬られていた
火事を機につくられた新しい教会は今でも教会として使われている↓
「ここにはキリストよりも、カルトジオ会の創立者である聖ブルーノの像の方が多いのですよ」
と、ガイドさん。
お酒をつくっている修道院は多い。ここも、カルトジオ会の名前を冠した独特の蒸留酒がある。
19世紀ごろの設備と宣伝パネルがあった↓
つまり、修道院が解体されて村になってからも製造は受け継がれていたということか。
↓インフォメーションでも売っておりました↓
***
いちばん奥の「ファーザー」たちが暮らしていたエリアへ入ってゆく
最初の「ブラザー」たちの中庭よりも少し小さめだが静謐な雰囲気↓
「ファーザー」ひとりひとりには、「ブラザー」の十倍の広さのスペースが確保されている。
その部屋のひとつに入る↓
入り口の扉も修道院時代からのオリジナル。「どうやって開けるかやってみてください」↓
メンバーのひとりが試すと・・・あ!開いた↓
回すのではなく、立に動かしてドアを開けるカギだった。
扉の横にある四角の穴は?↓
開けても中に「ファーザー」と顔が合わないようにわざわざ横に曲げてある↑
食事をここから提供していたのだが、当時使っていた「おかもち」を再現したものがこれ↓
↓部屋に入る↓立派な家具があるゆったりしたスペース
「ブラザー」の部屋の十倍もある敷地の模型↓
裏に自分専用の畑がある↓実物がこんな↓
↑自分の食べる野菜などを育てていたのだ
日々の仕事は「ブラザー」よりも知的な写本など↓
読み書きが出来る人も少ない時代、ラテン語の本を装飾文字を使いながら一冊一冊つくりだしていた工房だったのか。
****
回廊の突き当りはちょうど「城壁」に開けられた窓↓
城壁の外で行われている農作業を眺めるのが唯一の外界との接点だったのかしらん↓と思ったら…
↓外から見たところ↓
「『ファーザー』の暮す部屋にある外側に向かって開けられた窓は、フランス革命後に一般住居になってから開けられたものでした。」
と、解説がついたのだった。
*****
すっかり遅くなってしまった昼食、城壁のすぐ外にある小さなホテルのレストランにて