旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ウシュマル遺跡

2018-11-26 12:12:12 | メキシコ

カバー遺跡と参道でつながった兄弟都市ウシュマルには「魔法使いのピラミッド」がある↓

高さは38メートル程↓

「メキシコのピラミッド群のなかでいちばんうつくしい」という評判。たしかに(^.^)

上部に開けられた穴から、こんな↓像がみつかったそうな↓


角を丸くした個性的なデザイン↓


遺跡エリア入口からすぐのこのピラミッドに出会う。そこから左手に行くと「総督の館」が見えてくる↓

広場の向かい側にある檀上に、施政者が坐したと言われる「ジャガーの椅子」が置かれていた↓


●「総督の舘」とガイドブックにも書かれているが、建物の名称は19世紀の探検家たちが便宜上つけたもの。
実際に建築した人々がどう呼んでいたかはわからない。どのように使われていたのかもわかっていない。

↓人物との対比でかなりな大きさだと分かっていただけるだろう↓

↓文様で埋められているプーク様式↓

テラスから「魔法使いのピラミッド」方向↓





「総督の舘」の裏に出ると、左手に「大ピラミッド」がそびえている↓
↓ここには登ることができる↓

頂上のテラスからの眺め↓

↑「魔法使いのピラミッド」の左にある大きな建物が、あとから訪れる「尼僧院」↑


↑登りきって「ロッキー」みたいに喜ぶ欧米人も↑
↓降りる方が慎重に


●球戯場↓

↓この石の枠にボールを通す競技だったようだ↓


●「尼僧院」↓

入口を入ると、中世ヨーロッパの僧院のように中庭を四角く囲った建物↓

↓この場所に出た時、予習で読んだ19世紀後半にやってきたフランス人の言葉を思い出した↓

少し引用してみる※創元社 知の再発見双書07「マヤ文明~失われた都市を求めて」より
「私は尼僧院に身を落ち着け、南部に張り出した部分の部屋を寝室にしていた。(中略)三日目の事、4時ごろ豪雨をともなうすごい嵐があった。夜が訪れハンモックの上で丸くなった。いつもならすぐに安らかな眠りにつくところだ。突然すさまじい苦痛に襲われ目が覚めてしまった。部屋中に羽音が響き渡り、あたりかまわず手を伸ばすと大きなゴキブリぐらいの冷たくて平たい虫がたくさんいるのがわかった。急いでロウソクに火をつけた。次の瞬間(中略)ハンモックには少なくとも二百匹の気持ちの悪い虫がからまっていた。ほとんどが私から吸い取った血でまるまる太っていた。」
↓この文章を書いたフランス人デジレ・シャルネは写真家で1865年ごろにこの場所を撮影している↓いやはや、こんな経験をしながらの撮影だったのだ。

彼は二十代にニューオリンズでフランス人コミュニティのためのフランス語教師をしていたが、この時はマクシミリアン皇帝と共にフランスからやってきていた。メキシコは政治的な動乱時期にあったが、彼はマヤの遺跡に心を奪われて密林を探検していた。
**

「尼僧院」を出るところでフランス人の一団といっしょになった

共に外国旅行中に外国人に出会ってもの珍しい。通じない言葉でやりとりしているうちにみんなで写真を撮ることになりました(^.^)↓




この遺跡は1937-8年に修復されたと表示されていた


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メキシコシティからユカタン半島到着~カバー遺跡へ

2018-11-26 10:10:10 | メキシコ

カバーは密林の中の遺跡だった

4㎢の面積に一万人が暮らしていた場所だという。
紀元後700年から1000年ごろをピークとし、その後はチチェン・イッツァの勢力下に入ったと推察されている。
※後半にもっと写真を載せます
**
メキシコシティを飛び立つと広大な計画都市だというのがよくわかった↓

かつて湖だったという名残も、そう思ってみれば見える↓

ユカタン半島のメリダまで二時間弱のフライト↓

メキシコ国内には時差がないと思っていたが、ユカタン半島は年中サマータイムを実施しているので実質一時間の時差がある。

↓ユカタンの海岸線が見えてきた

メキシコシティ周辺の高地とちがって熱帯の森がひろがっている

空港の近くになり住宅街になってきた


飛行機を降りると、メキシコシティと五度以上は違う、そして湿度もある。
空港から南に位置するカバー、ウシュマル両遺跡に向かう道は

すぐにジャングルの中の一本道になった↓


カバー遺跡の周辺には店もなにもない。チケット売り場からいきなり石造りの階段がみえた



すぐよこにはマヤの人々が昔から住んでいる茅葺の住宅↓


向かい側に遺跡↓

神殿の前にはマヤの人々が神聖なものとかんがえた「セイバの木」が植えられている↓若木には棘がたくさんある

ふとみると・・・びっくりするほど大きなトカゲ!

だいじょうぶ、おとなしい(^.^)

急な階段をのぼり↓

テラスまで到着

彫刻でうめつくされたファサードが目の前にあらわれた



幾何学模様のように見えるが、巨大な顔の集まりだ↓丸い目とギザギザの歯。極彩色だった時にはもっと迫力があったにちがいない。

雨の神CHAAK(チャックともチャークとも発音されているようだ)
本来はぜんぶに象のような鼻があった↓一部だけに残っている↓

この鼻が雨を乞うていたのか。
ユカタン半島では水はとても貴重だったようで、雨水を溜める大規模な地下貯水槽も残されている↓

↓こんな仕組みになっているのだそうだ↓


「カバー」というのは現地の言葉で「強い手」という意味なのだそうだ。
その名前のもとになった石像が上部に残されている↓

↓確かに丸いおもしろいかたちをしている手↓

王の像だと言われている↓

↓顔には刺青↓

↑威厳ある表情に彫られている。刺青を含めた装飾は実際にこんなだったと思ってよいのではないだろうか。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メキシコシティ テンプロ・マヨール博物館

2018-11-25 18:18:41 | メキシコ
2006年、メキシコシティ中心の発掘現場から4×3.6mの巨大な神像が発見された↓

↑その場所につくられた博物館では上階の吹き抜けから見下ろすことができるように展示されている↑
↓重さ12トン。上に建てられていたスペイン時代の建物の重さで四つに割れていた↓


Tlaltecuhtli(「トラルテクトリ」とカタカナ表記します)はアステカ神話で大地をつくる時にその材料にされるため身体を引き裂かれた神だとされている。
なので、口からは血を流し、大地の恵みのために生贄の血を求める↓

口から流れる血は、火山から流れ出す溶岩からイメージされているのかもしれない。
↓右足の間に描かれたウサギ四匹はアステカの暦をあらわし、それによって西暦の1502年に置かれたものだとわかった。

すぐちかくからは一万二千点以上の奉納物が発見された。

↓メキシコシティのど真ん中で1978年に発見された大神殿跡の発掘場所の俯瞰模型↓
↓左のメトロポリタン大聖堂のすぐちかく。右上に建物を壊してぽっかり空いた場所が発掘現場=この博物館↓

(パリでもニューヨークでもロンドンでもなく)発掘場所に建設された博物館で発掘物が見られるのは幸いである。

人類学博物館はメキシコ全土から二千年以上にわたる発掘物を展示している俯瞰的な展示だが、ここはスペイン人によって滅ぼされたアステカの古都テノチティトランがどういう場所だったのかをクローズアップしてリアルに感じさせてくれる場所。ともに優秀な博物館だ。

歴史になにも興味がない人でも、造形的にぱっと一目で惹きつけられる展示物が満載↓
石器の展示からしてこれ↓おもしろすぎます


神官の服装を表したとおぼしき鳥の扮装をしたテラコッタ像↓

↓巨大な鷲神殿の石像↓これは写実的でヨーロッパでも見られそうな雰囲気だが

↓こちらの石のマスク ギリシャ・ローマといったヨーロッパとはまったくちがう印象を与える


↓この不思議なカタチはアステカの貴族・司祭階級にむけての学校にあたる建物のシンボルで、屋根の上にこれが並んでいたとされている↓


↓雨の神トラロックのポット↓「そのまま」のような色彩

アタマの部分に蛇が向い合せに彫られている
後面からみると確かにポット↓中からは真珠貝の殻と水を表す緑色の石が見つかった

ステージⅣ(1440-1469)頃の↓このような神殿だったと考えられている↓


蛇は台地や豊穣を司るのでよくでてくる


↓死の神 ミクトランテクトリ像↓

↓死の神の等身大テラコッタ像↓

死後に肉体が腐敗して骸骨になっていく過程のようすからこんな神を考え出してしまうなんて。
現代メキシコが「死者の日」を盛大な祭で祝うルーツは先住民の生死感からきているのだと感じる。

***
★テノチティトランの農業を再現した展示
↓湖の上に人工の島を築き、巨大なプランテーションを共同で行っていたと推察されている↓

スペイン人がこれを見て「ヴェネチアのようだ」と思ったのももっともだ。
島の端には根を張る樹木を植えて補強してある↓


この博物館、発掘調査がすすむにつれてまだまだ進化していきそうです(^.^)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メキシコシティのど真ん中に出現した遺跡

2018-11-25 17:17:17 | メキシコ

1978年、メトロポリタン大聖堂のすぐ横で、工事中に大規模なアステカ時代の遺構が発見された↓

遺構はスペイン統治初期の貴重な建物のの下まで続いていたが、結局建物を破壊して発掘が進められた↓
↓下の写真で建物が途切れているところがそれである↓

見つかったのは巨大なピラミッドの基部だとわかってきた↓

漆喰を塗られたオリジナルの壁

↓下の写真でピラミッドの階段部分がはっきりとわかる↓

「メトロポリタン大聖堂は神殿ピラミッドを壊した場所に建てられた」と伝承されていたのだが、
が、その場所は大聖堂の真下ではなかったのだ。掘ってみなければ真実はわからない。

↓下はアステカ時代のテノチティトラン(=メキシコシティ)復元図↓
↓湖の島を中心に建設された町の中心に三つの神殿ピラミッドがそびえている↓

アステカがこの地にやってきた14世紀半ばから滅ぼされる1521年までの間に七度(ステージⅠからⅦとよばれていた)にわたって増築され、
↓最終的な大きさは一辺80mを超えていた↓復元模型↓

↓大きさの比較図↓右からローマのコロッセオ、ギリシャのパルテノン神殿、三つ目がこの神殿ピラミッド、チチェンイッツァのピラミッド(ユカタン半島のマヤ遺跡)、すぐ近くに聳えているメトロポリタン大聖堂、

↑いちばん左がテオティワカン遺跡の太陽のピラミッド↑
テオティワカン文明は下の図で紺色の紀元前一世紀から紀元後六世紀↓この大神殿はいちばん右の赤色のアステカ文明部分に属する


その時代になんと呼ばれていたのかはわからないが、現代では「テンプロ・マヨール(大神殿)」と名付け、一般公開している↓

※今回の旅を計画していた段階では、ここがこれだけすごい遺跡だとは予想していなかった↓思ったよりもずっと広大で興味をそそる。これを見たら入ってみなくちゃ(^.^)余裕ある行程は大事。食事の予約などしていないほうがこういう時に悔いなく行動できる。

↓神殿の前に植えられていたと「聖なる木」そのものが見つかる↓丸い土台もオリジナル

↑これはステージⅣ(1440-1469)の時代に植えられた樫の木だと判明↑

階段下部と蛇の頭の装飾↓



↓マヤの神殿にあるのと同じ雨の神チャックモール像が見える↓

生贄の心臓を置いたとされる台↓
↓部族の信仰スタイルは影響されあっていたのだ。こちらは造形としてちょっとぎこちなく見えるけれど。

色鮮やかなレリーフがたくさん


240個の頭蓋骨を積み重ねたデザインの台↓「大神殿」の北側から見つかった。



地面は石畳で、何層にも改修されていた↓

↑下はステージⅤ後期の(1481-1486),上はステージⅥ(1486-1502)のものと推察されている。
湖上の島を舗装する石はその場所ではとれない。離れた石切り場から湖上輸送して運ばれていたのだ。

この真新しいレンガもアステカ?解説を読んでみると…
★1900年ごろに設営された下水道管だった!↓

下水管を通すために遠慮なく神殿の一部が遠慮なく壊されていた。
つまり、1900年の工事の時に、すでにアステカの遺構は見つかっていたのだ。
当時は先住民の遺跡など一顧だにされない時代だった事をよく理解させてくれる。
時代によって大事にされるべきモノも変わってゆく。

併設された博物館にここから発見されたモノが展示されている。
発掘された場所でそのものを見られることの意義を感じさせてくれる場所。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソカロ広場を見下ろす場所でランチのあと、メトロポリタン大聖堂へ

2018-11-25 15:15:15 | メキシコ
午後二時をとっくにまわり、メキシコ時間でランチを。
ソカロ広場のメトロポリタン大聖堂をみおろすテラスは知っていなければなかなか入ってこない場所だろう。

ここは百年以上前に建てられたマジェスティックホテルのテラス。

喧噪の大通りから小さなホテルの入口を入る↓左の旗の出ているところ

ロビーに入ってきた時、キューバのホテルを思い出した↓

そうだ、キューバの老舗ホテルの多くは革命前に建築されたもの。このマジェスティックホテルと同時期に創業していた。
蛇腹扉のこぶりなエレベーターにのって七階へ上がると↓

シックなテラスレストラン↓

休日のお昼、豊富なバッフェは。地元の家族連れがたくさん訪れていた。

とりすぎないようにしなくちゃ。



**
ランチを終えてソカロ広場へ出る。午後の光がメトロポリタン大聖堂の正面を照らす↓

アステカの首都テノチティトランだった時代のこの場所には神殿があったとされる。

アステカの神殿を壊して1521年に建設された最初の教会の跡↓

現在の聖堂は1562年に建設がスタートし三百年以上かけて現在の姿になった。
1614年に支倉常長がやってきた時にはどんな姿だったのだろう…

内部、巨大な空間↓スペイン式に中央に閉ざされた聖歌台があり、その周囲を礼拝堂が囲むスタイル。

↑六十年ほど前に火事に遭って半分焼けたて塗りなおされた金。手前のくすんだ金色の方がオリジナル。
1718年からつくりはじめられた主祭壇↓

プラテレスコというかチュリゲラというか…これでもかのバロック装飾

●聖具室のを飾る絵画は別料金↓

1684年から1691年にかけてクリストバル・デ・ヴィラパンド(1649-1714)とファン・コレア(1646-1716)という二人の画家によって描かれたバロック絵画空間↓

主祭壇が現在のモノになる以前に、スペイン本国へ行ったこともなかった二人がここまで描いていたのか。
「ヴィラパンドは自画像を聖職者たちの中に描いている」と解説文にあったが、下の列の中の誰かはわからない↓

↑自画像はよく「こちらを見ている人物」なのだが、この絵ではみんなこちらを見ております。


★フィリポ・デ・ヘススの礼拝堂は日本に関連がある。彼は1597年に長崎で殉教した二十六聖人の一人。メキシコではじめて列聖された人。
↓正面祭壇に処刑される姿↓

彼が洗礼を受けたのはこの礼拝堂のすぐ横の洗礼堂とされている。
祭壇の絵画には処刑前の支度をする「ちょんまげ姿の侍」が描かれているとガイドさん↓
↓暗い祭壇をカメラで撮影して処理すると…おお、その姿が見えました↓


なぜか、同じこの礼拝堂にメキシコ初代皇帝アウグスティン一世も葬られている↓


彼はもともと独立派反乱軍を鎮圧する軍の司令官だった人物。
反乱軍に寝返りスペインからの独立を成し遂げた直後に自らメキシコ皇帝に即位した。
が、一年も経たずに失脚し、亡命の後帰国しようとしたところを捕まり銃殺。
評価は微妙なのだが、メキシコ独立史のなかでひとつの場面の主役だった人物にはちがいない。

○この聖堂の彫刻群はよく見るとなかなか興味深い↓

ぱっと見ヨーロッパの彫刻に見えるが、よくみるとアステカの彫刻っぽい人物表現になっているのだ↓

こういった特筆されることのない造形はヨーロッパの彫刻を見たことがない職人によってつくられていったのだろう。
かれらの身近にあったお手本はアステカの彫刻にちがいない。




広場に出てみよう


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする