旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

グアダルーペの聖母

2018-11-25 13:13:13 | メキシコ
注:「グアダルーペの聖母」の話はいくつものヴァージョンがあります

1531年の12月、ファン・ディエゴはアステカ族の間で死の病と言われた熱病にかかった叔父ファン・ベルナルディーノを看病していた。
朝四時、叔父の死が近いと感じたファン・ディエゴは最後の告解をうけさせるべく司祭を呼びに走った。

テペヤックの丘にさしかかった時、美しい女性に呼び止められた。急いでいたディエゴは話さずに通り過ぎようとしたが「もう病は癒えました」と告げられ、彼女が聖母なのではないかと感じた。司祭にこの話をするとその話を証明する物を持ってくるように言われ、再び丘に登ると聖母と出会った丘には季節外れのバラが咲いていた。摘んだバラを着ていたマントで包み司教の前で開くと、マントには聖母の姿がくっきりと映し出されていた。

そのマントは今でもこんな風に人々の前に公開されている↓


同じ頃、病床の叔父ベルナルディーノの元にも聖母マリアは現れ、病は全快した。

「聖母マリアが先住民のナワトル語を話したというのか?」
当時のカトリック教会はこれを認めるか紛糾したが、ローマ法王パウルス三世は「インディオは人間として尊重されるべきである」という回勅を発表した。

教会の近くで下車↓1976年に出来た新しい聖堂がすぐそこ↓

ラテンアメリカ圏で最も信仰されている聖母の地。日曜の午後は人が多い?いや、奇跡が起きたとされる12月にはもっと混雑するのだそうだ。
ロウソク↓

これはこのまま食べるの?↓


教会の前は大きくひらげている↓右に新しい鐘
↓赤いドームはカプチン派の修道院(カプチン派はフランチェスコ派の一派)

全体の位置関係はこんな↓

↑右上のテペヤックの丘はもともとアステカ族の神殿があった場所。
★グアダルーペとは
アステカ族のナワトル語Tecuatlanopeuhからきていると考えられている
これは「崖の上からきた女性」という意味で、テペヤックの丘の女神を指しているようだ。
マリア信仰とうまく結びつく奇跡譚なのである

1709年建造の古い教会↓マントはかつてここに奉納されていた↓

↑かつては湖だったメキシコシティは地盤が安定していないので古い建物は沈下してくる
↓そこで1976年に建設された新しい教会

↓内部は巨大↓写真で左下へ導かれる通路に動く歩道が設置されていて↓

「グアダルーペの聖母」を見上げながら通り過ぎてゆくようにできている

聖母の目にファン・ディエゴの姿が映っているという話はいつごろから言われるようになったのかしらん↓






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ソウマヤ美術館

2018-11-25 12:12:12 | メキシコ
世界一の富豪に選出されたこともあるカルロス・スリムが2011年に開館させた個人コレクションの美術館↓※ソウマヤとは亡き妻の名前だそうな
近くに立つと巨大すぎて全景が入らない

※動画で撮ってみました
六角形の金属板を表面に貼ってある
↓メキシコシティ西部のポランコ地区は日本人も多く住む治安の良いビジネスエリア

もともとは工業地帯だったそうだが再開発された

すぐとなりにあるギザギザ屋根の建物も美術館だが、このカタチが工場地帯だった時の記憶をあらわしているようだ↓


**
内部構造はニューヨークのグッゲンハイム美術館を思い出させる。あそこほど極端ではないが螺旋構造に展示室が配置されている。
↓入口から螺旋への入口階段付近↓

ロダンのコレクションが充実しているそうで、入口に「地獄門」が。上野の西洋美術館入口にあるものと同じに見えた。
今回ここを訪れるきっかけになったのは2017年にNHK日曜美術館でとりあげていた南蛮屏風「大洪水」がここにあるということ。追放された日本人切支丹が日本の工芸技術をつかってマカオで制作したのでは?とされる
※この方のブログに番組を詳しく書かれています
今回、残念ながらそれは展示されていなかったようだが、他にも東南アジア地域で制作された屏風や工芸品が充実していた。

キリスト教が現地の文化を使って浸透していくというのはメキシコと似ている


螺鈿細工をつかって、キリストやマリアの生涯を描いた作品↓螺鈿細工はいかにもアジア的


小松が一番注目したいのは、メキシコ先住民が伝統の鳥の羽モザイクを使って製作した聖母マリア。背景がキラキラしている↓18世紀後半のもの


ヨーロッパ絵画も充実しているが  

外国からの来訪者としては、この地ならではのモノに触れたいと思う。
今朝訪れたメキシコ自治大学UNAMにあった壁画の原画デッサンはまさにそれ↓
↓シケイロスが1950年代に描いた↓

シケイロスは岡本太郎に大きな影響を与えた人物。
そう思ってみるとなるほどと思う。

メキシコには遺跡だけでなく魅力的な新しい美術館も多いと気づいた。一般的なツアーではなかなか組み込まれることがないこういった場所だが、少しずつスポットを当てていければよいと思っている。





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世界遺産 メキシコ国立自治大学(UNAM)

2018-11-25 11:11:11 | メキシコ
メキシコ国立自治大学(略称UNAM)いちばん目立つのはこの図書館だろう↓

「CU」は Ciudad Universitaria =大学都市。1950年代に建設され全体で733ha(東京ドーム155個以上)の大きさを誇る場所の一角に位置している。
下がその大学やスタジアムエリアの拡大図↓

↑全体は図の右下に枠だけ描かれている。
世界遺産に登録されたのはこの全体に対してであって、図書館の壁画がすばらしいという理由だけではない。
※図書館はオレンジ色のBゾーン左に位置している↑

とはいえ図書館の壁画は見ておくべき価値がある↓午前中の光をあびている南面↓

スペインがやってきた1521年から独立の1820年までの時代=植民地時代を表している↓
中央の一番下には欧米人が持ち込んだ教会↓その背後に古代からのピラミッドが描かれる↓

↑左右の白いリボンは「ヘラクレスの柱」に巻きつき、大航海時代のスペインがモットーにしていた「PLUS ULTRA=究極のその先へ」の文字。ヨーロッパの西の端だったスペインがその先の新大陸へやってきたことを意味する。
その上に、植民地支配を表す鎖。左右に剣と十字架。
すべての上に描かれた知性の本。

建物内部を抜けて北面も見にいこう

北面にはスペインがやってくる以前のメキシコシティ世界が描かれている↓

水色は水路。メキシコシティは湖の上に築かれた水上都市だったのだ。
↓その真ん中に、サボテンの上に舞い降りたワシ↓

これはメキシコ国旗の真ん中にも描かれてる伝説。
14世紀、アストランという都市に住んでいたアステカ族は気候変動によって新たな町をもとめて移動を開始。王の夢に「岩の上に生えたサボテンの上にヘビを咥えたワシがとまる土地へ行け」というお告げをうけた。

標高二千メートルを超える盆地の湖で、まさにその光景を目にしてそこに住むことにした。
都市の名前はナワトル語で「テノチティトラン=石のように固いサボテン」
国名は「メヒコ=月のヘソ」となった。

こういう巨大な壁画がキャンパス内に点在位している。
それぞれにスポットを当てるよりも、この場所の価値は全体の構成にある。
メキシコシティが現在のように埋めたてられていく前の湖上の計画都市だった時代のイメージを表しているのだ↓
↓そう思ってみれば、ワンちゃんがはしゃぐ水たまりも違って見えます↓


↓これはテノチティトラン=現メキシコシティでの栽培の様子を再現した模型↓午後に訪れたメキシコシティ中心部の新しい博物館での展示↓

↓CUの地面のデザインはこれをイメージしていたのがあとからわかった↓


まぁ、こんな事々はしらなくても、今日のCUはさわやかに晴れて散歩に最適でした↓





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メキシコシティ~朝散歩から旧オリンピックスタジアムへ

2018-11-25 09:56:18 | メキシコ
朝食に「メキシコちまき」タマーレスが出ていた↓

※こちらにひらいたところの写真とタマーレスについて書きました
観光出発まで時間がある。ホテル近くの「独立記念塔」まで散歩にでよう。貴重品もすべておいて、手ぶらで。
TOKYO通りとプラハ通りをみつけた↓

ここに限らず、世界の有名な都市や人物の名前をつけた場所をよくみかけるメキシコシティだ。
週末の大通り、今日もマーケットがひらかれるようだ↓

放射状に道路が交差する真ん中に見えてきた「独立記念塔」↓
休日の朝に走る都会人が多いのは東京もメキシコシティも同じ↓ちがうのは、車道のバス路線を走っていること。休日はほとんど便がないのだそうです。

高さは48mというから、パリの凱旋門よりちょっと低いぐらい。だが、立地と形状からもっと大きく感じさせる⇒

メキシコの独立戦争がはじまった1810年から百年を記念して建設された。
今回グアナファトで1810年に戦闘になった場所を訪れたのでより感慨がある

※こちらからその場所を見学したブログをごらんいたけます

ここは単なる記念碑ではなく、独立に貢献した英雄たちの遺物が納められたマウソレウム=墓にもなっている。
※メキシコ皇帝アウグスティン一世だけはメトロポリタン大聖堂に改葬されている。このあたりの事情は歴史を読んでいると見えてくる。また、別途書きます。


内部は螺旋階段になっていて天使像の下まで登れるそうだ。
天使像の高さは七メートル近くある↑

ぱっと見た時にはベルリンの「勝利記念塔」を思い出した。似てませんか?
※こちらに書きました




メキシコシティにもこの手の自転車↓


メキシコシティでいちばん多いコンビニはサークルKなんだそうな↓


日曜の朝の教会↓


朝食を出すレストランも少なくない↓



訪れてみてはじめてわかる事。
舗装された歩道のでこぼこさ加減↓


*****
九時にホテルを出てまずは大学地区へ。
その中心には1968年メキシコオリンピックのメインスタジアム↓

巨大なレリーフは「壁画運動」時代の1952年にディエゴ・リベラがえがいたもの↓

メキシコの父と母が平和の鳩を子供に手渡している↑上にえがかれたワシとタカはそれ南米とメキシコを象徴

今日は大学チーム同士のサッカー試合があるそうで、たくさん屋台が出ていた。
その中に、朝食で食べたタマーレスの赤い版があった↓

たべてみましょうふむぶむ、「かるかん」に似ておりました。

日曜日でサッカーの試合があるにしてもずいぶん警官が多い↓

サポーター同士のいざこざやさわぎに便乗する輩が多いのだ
↓この整列した制服の男たちも警備のひと?↓

おや?制服にはCORONAと書かれている。
手に持っている穴がたくさん開いた板は何に使うの?
答:スタジアムのビール売りさんたちでありました(^.^)

今日は大学チームが出るのでそのマスコットであるピューマのキャラクターグッズがたくさん売られている↓

世界遺産に指定された大学キャンパスへ行ってみよう


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国立人類学博物館

2018-11-24 17:17:17 | メキシコ
紀元前1400年~紀元前200年ごろ栄えたオルメカ文明が遺した巨大な頭部↓

これをひと目見るだけで、スペイン人がやってくるはるか以前から高度な文明社会があった事を理解させてくれる。
同様なものが十七個発見されていてそれぞれ顔が違う。
どことなくネグロイド的な雰囲気を感じさせる不思議。
王の顔であるという説もある。
**
人類学博物館は1964年にこのチャペルテペック公園に移転・開館した。主にスペイン来航以前のメキシコの歴史を俯瞰できる場所だ。

入口にさっそく雨の神トラロックの像↓

古代の巨石文化を見ていると、圧倒的な大きさというのはそれだけで説得力につながるのだと感じる。
↓この入口を入ると↓

中庭を囲うように展示室が設置されている。
中庭にある大屋根の大迫力↓このぐらいしないと展示物の迫力に負けちゃうんでしょうか(^.^)




**
メキシコの原住民はアジアからベーリング海峡を渡ってやってきたとされている↓

マンモスなんかもいた時代ですね

ガイドをしてくれたセザールさんは、通っていた小学校のすぐ近くでマンモスの化石が見つかったそうだ。
リアルで迫力あるマンモスの牙は今でもよく覚えていると言っていた。
↓洞窟に残された壁画も実物大で再現↓

***
各文明ごとに部屋が区切られている。
表層を俯瞰する程度であっても、印象的なモノに出会いたい。
なんといっても本物を自分の目で見ることでしかわからないことがあるから。

午前中に訪れていたテオティワカン
★テオティワカンで見つかった雨の神の像↓

「月の神殿」の上に立っていたのではないかと想像されている。

ケツァルコアトルのピラミッドを実物大で復元してある↓

現場ではよほど想像力のある人でもここまでは感じられない


メキシコ中央高原地帯には五千メートルを超える火山が二つあって、古代から現代に至るまで人々は影響をうけてきた。ピラミッドは火砕流からの避難場所だったという話もある。
だから、「火の神」の表現は多かった。
↓背中の曲がった老人が火鉢を背負ったかたちであらわされている↓手には何を持っていたのだろう?


★オアハカ文明 
交易の要衝で紀元前12世紀ごろから長く栄えていたモンテ・アルバンからの出土品も豊富

「こうもりの神」のマスク↓

クリスタルの骸骨↓これは確かにホンモノだ↓

※2013年に大英博物館で見たクリスタルスカルの写真はこちらの日記に一枚載せています

人骨を使った楽器↓


↓碑文に演奏のシーンも描かれている↓


★パレンケ遺跡のパカル王の墓
今回の日程では訪れなかったが、このピミラッドから王の棺が見つかったのは1952年↓※展示写真

「メキシコのピラミッドは墓ではない」と思われていたのだが、1948年にピラミッドの頂上にある床石が揺らぐのに気付いた考古学者がいた。
床下から瓦礫で埋められた階段が見つかり、四年かけて慎重に取り除く。と、たどり着いた石の蓋↓
博物館に復元しておかれている↓

このかたちではよく見えないのだが、これはミステリー好きには有名な↓

「宇宙船を操縦している」と思った人もいる図柄であります。
本当は右側が下になる。口を開けた冥界の動物が居てそこに落ちてゆく王の姿が描かれている。
こんなかたちで見つかったものだったのか。

そして、巨大な一枚岩の蓋をもちあげると、その下から…

赤い辰砂につつまれた王が翡翠のマスクをつけて眠っていた↓

↓二百以上の研磨された翡翠を組み合わせたリアルなマスク↓


右の手には立方体。左の手には球体をにぎっている↓


この発見をしたのはアルベルト・ルツという人物↓キューバ人の父とフランス人の母のもとに生まれ、ハバナのカレッジに通った↓
墓の蓋の間のポートレートが飾られていた↓

↑石棺の巨大の蓋の下から顔を出すこの写真を見るだけで、彼が何をする人間なのかが伝わる。
この発見の三十年前、1922年にエジプトでツタンカーメン王墓を発見したイギリス人考古学者カーターも石棺内で写真を撮っていたっけ。

アルベルト・ルツはアメリカやスペインに搾取される先住民たちにシンパシーを抱き、三十歳でメキシコに移住して市民権を取得した。
パレンケ遺跡のこの発見は生涯で特筆される功績。
1979年にケベックのモントリオールで没したが、メキシコ政府はパレンケ遺跡の一角に彼の墓を置くことを許可した。






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