1945年8月9日にソ連が日ソ中立条約を破って参戦した時点で、ソ連の宣戦布告が日本政府に届いていなかったことが8月8日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。
宣戦布告を通告された佐藤駐ソ連大使が日本の外務省宛てに打った公電がソ連当局によって電報局で封鎖されていたためだ。
ソ連は宣戦布告から約1時間後に満州(中国東北部)や樺太などで一斉に武力侵攻を開始。
その約4時間後にタス通信の報道などで参戦を知った日本は不意打ちされた格好となった。
日米開戦における真珠湾攻撃で対米宣戦布告が約1時間遅れたことで、日本はだまし討ちをする卑怯な国と東京裁判などで汚名を着せられたが、終戦直前の意図的な闇討ちで、北方領土を奪ったスターリン首相の背信行為が改めて明らかになった。
ソ連のモロトフ外相はモスクワ時間の1945年8月8日午後5時(日本時間同日午後11時)、クレムリンを訪問した佐藤大使に宣戦布告文を読み上げ手渡した。
モロトフ外相が暗号を使用して東京に連絡することを許可したため、佐藤大使はただちにモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。
しかし、外務省欧亜局東欧課が作成した「戦時日ソ交渉史」によると、この公電は届かなかった。
モスクワ中央電信局が受理したにもかかわらず、日本電信局に送信しなかったためだ。
ソ連は佐藤大使への通告から約1時間後のモスクワ時間1945年8月8日午後6時(日本時間9日午前0時)に国交を断絶し武力侵攻を開始。
日本政府がソ連の宣戦布告を知るのは日本時間の1945年8月9日午前4時で、ソ連が武力侵攻を開始してから4時間がたっていた。
タス通信のモスクワ放送や米サンフランシスコ放送などから参戦情報を入手したという。
正式な宣戦布告文が届いたのはマリク駐日大使が東郷茂徳外相を訪問した1945年8月10日午前11時15分。
ソ連が侵攻してから実に約35時間が経過していた。
日本が8月15日にポツダム宣言を受諾し、降伏文書が調印された9月2日以降も、武装解除した北方四島などに侵攻したソ連が一方的な戦闘を停止するのは1945年9月5日。
日本は最後までソ連に宣戦布告していない。