たぶん初めて観た台湾映画だと思う。ラブストーリーの体裁をとっているので、全体としては軽やかな印象がある。しかし、日本との関係、中国本土との関係、台湾の社会が抱えている問題といったものを示唆する暗喩がいたるところに埋め込まれているような感じがする興味深い作品だ。
たまたま昨年11月から司馬遼太郎の一連の歴史小説を読んでいる所為かもしれないのだが、19世紀から20世紀にかけてのアジアにおける日本の位置付けというものが気になっている。日本の評判というのは総じて芳しくないと思うのだが、そうしたなかにあって台湾の対日感情は比較的良好だという話をよく耳にする。日本による統治期間に関することは評価が分かれるところでもあり、十分な知識なしに軽々しく論じるべきでもないので、ここでは触れない。ただ、仮に日本による統治に先立つ清朝統治、逆に戦後になって中国本土から渡ってきた国民党による統治が首尾よく行われていれば、対日感情は現在とは違ったものになっていたであろうということは言えると思う。
作品の舞台は台湾の最南端の町、恒春。登場人物の台詞からは、台湾も台北に様々なものが集中し、地方都市は町興しに頭を悩ませなければならない現実が推測される。小さな島だが、もともとこの島で暮らしていたいくつかの部族があり、大陸から渡ってきた人々があり、しかも、それぞれが強い自己主張をしている、という図式も見て取れる。海辺の小さな町を舞台にしているのに、台詞の言語が北京語、台湾語、日本語、英語の4ヶ国語だ。日本語と英語は別にして、台湾語を使い続ける人々の心情というものを想像するに、やはり歴史のなかで翻弄されながらも自己を守りぬいた誇りのようなものがあるのではないだろうか。日本人として日本に暮らしていると意識することはないのだが、自己の領域というもののなかに民族という背景は濃厚に影響を与えているはずだ。それでいて、人々は台北を目指すという現実も一方にある。おそらく台北は北京語の世界なのではないか。このあたりに台湾という島が抱える複雑性があるように思う。
そうした小さな自己を超えた、太平洋戦争の頃の台湾人と日本人の悲恋、現代の台湾人と日本人との恋が描かれている。国境や民族を越えた恋愛というのは、やはり特別なことであるように思う。人と人とが心を通わすのに必要なのは言葉そのものではないということは実感としては了解できるのだが、考え方の骨組みのようなものが異質とも言えるほどに違っていたとしても、その相手を理解することができるだろうかと素朴に疑問を感じてしまうのである。尤も、この作品では台湾の地方都市にすらある小さな自己のせめぎあいを超えて人と人とがつながるという、関係の広がりとか個人の存在の普遍性のようなものを描こうとしているのだろう。
関係の広がりという点では、この町で開かれる日本人歌手のコンサートの前座として登場するバンドも重要な意味を作品に与えている。このバンドのメンバーはオーデションで選ばれた人々で構成されるのだが、選考基準というようなものはなく、審査員である町議会議長、町長、その取り巻き連の恣意というか殆ど気分で選ばれるのである。下は小学生から上は80歳まで、何の共通点もないメンバーを寄せ集めて、最初は演奏以前に存在そのものが危ぶまれるような状況だったのが、本番では見事な演奏を披露するところにまで達する。とはいえ、メンバーが心をひとつにして、というようなきれいごとではなしに、それぞれにバンドに参加することの思惑がある、というあたりに現実世界と同じような危うい統一感があるというのも面白い。必然性などなくとも、目的が単純明快に規定されれば、人の集団というものはその目的を達するべく躍動する、ということなのかもしれない。
たまたま昨年11月から司馬遼太郎の一連の歴史小説を読んでいる所為かもしれないのだが、19世紀から20世紀にかけてのアジアにおける日本の位置付けというものが気になっている。日本の評判というのは総じて芳しくないと思うのだが、そうしたなかにあって台湾の対日感情は比較的良好だという話をよく耳にする。日本による統治期間に関することは評価が分かれるところでもあり、十分な知識なしに軽々しく論じるべきでもないので、ここでは触れない。ただ、仮に日本による統治に先立つ清朝統治、逆に戦後になって中国本土から渡ってきた国民党による統治が首尾よく行われていれば、対日感情は現在とは違ったものになっていたであろうということは言えると思う。
作品の舞台は台湾の最南端の町、恒春。登場人物の台詞からは、台湾も台北に様々なものが集中し、地方都市は町興しに頭を悩ませなければならない現実が推測される。小さな島だが、もともとこの島で暮らしていたいくつかの部族があり、大陸から渡ってきた人々があり、しかも、それぞれが強い自己主張をしている、という図式も見て取れる。海辺の小さな町を舞台にしているのに、台詞の言語が北京語、台湾語、日本語、英語の4ヶ国語だ。日本語と英語は別にして、台湾語を使い続ける人々の心情というものを想像するに、やはり歴史のなかで翻弄されながらも自己を守りぬいた誇りのようなものがあるのではないだろうか。日本人として日本に暮らしていると意識することはないのだが、自己の領域というもののなかに民族という背景は濃厚に影響を与えているはずだ。それでいて、人々は台北を目指すという現実も一方にある。おそらく台北は北京語の世界なのではないか。このあたりに台湾という島が抱える複雑性があるように思う。
そうした小さな自己を超えた、太平洋戦争の頃の台湾人と日本人の悲恋、現代の台湾人と日本人との恋が描かれている。国境や民族を越えた恋愛というのは、やはり特別なことであるように思う。人と人とが心を通わすのに必要なのは言葉そのものではないということは実感としては了解できるのだが、考え方の骨組みのようなものが異質とも言えるほどに違っていたとしても、その相手を理解することができるだろうかと素朴に疑問を感じてしまうのである。尤も、この作品では台湾の地方都市にすらある小さな自己のせめぎあいを超えて人と人とがつながるという、関係の広がりとか個人の存在の普遍性のようなものを描こうとしているのだろう。
関係の広がりという点では、この町で開かれる日本人歌手のコンサートの前座として登場するバンドも重要な意味を作品に与えている。このバンドのメンバーはオーデションで選ばれた人々で構成されるのだが、選考基準というようなものはなく、審査員である町議会議長、町長、その取り巻き連の恣意というか殆ど気分で選ばれるのである。下は小学生から上は80歳まで、何の共通点もないメンバーを寄せ集めて、最初は演奏以前に存在そのものが危ぶまれるような状況だったのが、本番では見事な演奏を披露するところにまで達する。とはいえ、メンバーが心をひとつにして、というようなきれいごとではなしに、それぞれにバンドに参加することの思惑がある、というあたりに現実世界と同じような危うい統一感があるというのも面白い。必然性などなくとも、目的が単純明快に規定されれば、人の集団というものはその目的を達するべく躍動する、ということなのかもしれない。