熊本熊的日常

日常生活についての雑記

数字が歩く

2010年01月16日 | Weblog
AERAの記事を読んだ知人から「幸せ点数100点ってすごい」というメールを頂いた。記事を読んでいないか、読んでも理解できていないかのいずれかだろう。100点満点として何点かと問われたので100点にして、幸せというのは100点か0点かどちらかでしかない、そういう点数を意識すること自体が不幸なことだということを語ったつもりであるが、結局は点数しか見ないのである。つくづく何事かを伝えるというのは難しいと感じた。

人は自分が見たいと思う現実しか見ない、という。現実の世界、と認識されているものがあるのは確かで、そこに物理的な街や田園や海や山があり、そこで社会というものがあり、人の生活が営まれている。しかし、その物理的なるものが誰にとっても全く同じように存在するのかというと、そうではないように思う。他人になったことがないのでわからないのだが、自分が見ている風景と同じものが他人にも見えているのだろうか、と常々疑問に思っている。人は自分の脳のなかでその人なりの世界を構築し、その住人として生きている。同じ構造の感覚器を持ち同じ構造の脳を持っているので、おそらく物の大小や長短、温度の高低などの感覚はある程度は共有しているのだろう。物理的なものはそれでよいとして、形の無いものをどのように認識するのだろうか。喜怒哀楽のツボは人により、状況により違うものであり、思考の方法も同じではない。世にベストセラーだのヒット映画だの高視聴率番組といったものがあるのだから、形の無いものの認識もやはりある程度は共有しているのだろうが、その共有の度合いは形の有るものとは比較にならないほど低いように思う。

そもそも自分の認識を表現するはずの言葉に対する感覚が人によって微妙に異なる。そこで達意の文章を作るときには、表現を簡単にして、数字という明示的尺度を散りばめる。現にAERAの記事はそのように作られている。要所に数量表現があり、読者はそれだけ記事内容を具体的に認識できる。にもかかわらず、数字という具体的表現だけが読む者の脳を強く刺激するのだろう。数字と自分の文章理解によって思い思いに自分だけの解釈をするのである。

記事の解釈と、それに基づく私的な意思疎通なら、
「幸せ100点ってすごいね」
「本当に記事読んだの?」
といったやりとりで済むが、社会生活の規則にかかわるところで勝手な解釈が行われると秩序の崩壊につながる。

最近、高速道路を逆走することによる事故を耳にするようになった。逆走した本人も事故死してしまうケースが多いが、先日何かで読んだ記事には逆走した人のコメントが載っていた。
「いつもより対向車が多いと思った」
本人は逆走している意識が無いのである。

もっとも、そのような個人差が文化の豊かさであることも確かだろう。社会を維持する上で必要最小限のことだけ守られていれば、あとは公序良俗に反しない限りにおいて、自由に自己を表現し、他人の自己表現に対しても寛容に見守る、というのが居心地のよい社会なのではないかとも思う。現実は自己を発散させる意識が濃厚な割りに他者の自己を受けとめる意識は希薄なものだ。数字のようなわかりやすいものだけを追い、その背景を考えるという姿勢を失うと、世の中は逆走人間ばかりになってしまう。これでは暮らすことができない。