子供からの「地獄変」についてのメールに、1月20日付のこのブログとほぼ同内容の返事を書いたら、次のような返信があった。
「地獄変のお父さんの考え方、とても納得出来ました。良秀が娘が殺される際恍惚としていた理由をいまいち理解出来て居なかったのですが、お父さんの説明で理解出来たように思います。」
あのような書き方で本当に納得したのか疑問が無いこともないのだが、私が言いたかったのは、存在することの証明として最も説得力があるのは、その存在を消し去ってしてみることなのではないかということなのである。
例えば、仏像で如来というのがある。如来とは、真理を覚った者、の意で覚りを開いたときの釈尊の姿として表現される。菩薩というのは、覚りを求める者、の意で出家前の釈迦の姿として表現される。真理を覚った如来の姿は粗末な衣をまとっただけである。釈迦如来であろうと阿弥陀如来であろうと薬師如来であろうと、袈裟をまとっただけで装飾は一切無い。この袈裟は糞掃衣とも言われ、人々の生活のなかで使い尽くされてぼろきれ同然となったものから作ったものだそうだ。その文字通り飾りの無い姿が無上の存在であることを表している。現世のあらゆるものを超越した姿とは、釈尊その人だけの姿ということだ。ただ大日如来は密教の森羅万象を包含した姿を象徴しているため菩薩のような装飾がある。
菩薩は出家前の釈迦、インドのシャカ族の王子の姿なので、きらびやかな装飾品で飾られている。まだ覚りに至っていないので、煩悩にまみれている。煩悩とはきらびやかなものなのだ。ただ弥勒菩薩は如来のように装飾のない姿で表現されている。これは弥勒菩薩が如来となることを約束された未来仏であるためだ。
つまり、覚りの有無は装飾の有無によって表現されるのである。覚りを開くとは、身にまとった飾り物を捨て去ることなのであり、初めから覚りがあるわけではない。そこにあったものがなくなっている、ということを表現することで、そこにあったものを想起するという仕掛けだ。如来の耳たぶには大きな穴が開いている。菩薩の耳を見れば、その穴にかつてイヤリングがぶら下がっていたことが想像できる。衣もなくしてしまってよいのではないかと思うかもしれないが、衣があることでそこに釈尊の身体が在ることを想像でき、その衣が糞掃衣であることで、菩薩のきらびやかな装飾との違いを、その装飾を捨て去った思考の歴史を、想像できる人は想像するのである。その捨て去ったものの大きさが、その人自身の大きさとして表現されている、と見えないこともないだろう。
「地獄変のお父さんの考え方、とても納得出来ました。良秀が娘が殺される際恍惚としていた理由をいまいち理解出来て居なかったのですが、お父さんの説明で理解出来たように思います。」
あのような書き方で本当に納得したのか疑問が無いこともないのだが、私が言いたかったのは、存在することの証明として最も説得力があるのは、その存在を消し去ってしてみることなのではないかということなのである。
例えば、仏像で如来というのがある。如来とは、真理を覚った者、の意で覚りを開いたときの釈尊の姿として表現される。菩薩というのは、覚りを求める者、の意で出家前の釈迦の姿として表現される。真理を覚った如来の姿は粗末な衣をまとっただけである。釈迦如来であろうと阿弥陀如来であろうと薬師如来であろうと、袈裟をまとっただけで装飾は一切無い。この袈裟は糞掃衣とも言われ、人々の生活のなかで使い尽くされてぼろきれ同然となったものから作ったものだそうだ。その文字通り飾りの無い姿が無上の存在であることを表している。現世のあらゆるものを超越した姿とは、釈尊その人だけの姿ということだ。ただ大日如来は密教の森羅万象を包含した姿を象徴しているため菩薩のような装飾がある。
菩薩は出家前の釈迦、インドのシャカ族の王子の姿なので、きらびやかな装飾品で飾られている。まだ覚りに至っていないので、煩悩にまみれている。煩悩とはきらびやかなものなのだ。ただ弥勒菩薩は如来のように装飾のない姿で表現されている。これは弥勒菩薩が如来となることを約束された未来仏であるためだ。
つまり、覚りの有無は装飾の有無によって表現されるのである。覚りを開くとは、身にまとった飾り物を捨て去ることなのであり、初めから覚りがあるわけではない。そこにあったものがなくなっている、ということを表現することで、そこにあったものを想起するという仕掛けだ。如来の耳たぶには大きな穴が開いている。菩薩の耳を見れば、その穴にかつてイヤリングがぶら下がっていたことが想像できる。衣もなくしてしまってよいのではないかと思うかもしれないが、衣があることでそこに釈尊の身体が在ることを想像でき、その衣が糞掃衣であることで、菩薩のきらびやかな装飾との違いを、その装飾を捨て去った思考の歴史を、想像できる人は想像するのである。その捨て去ったものの大きさが、その人自身の大きさとして表現されている、と見えないこともないだろう。