昨年11月からずっと司馬遼太郎の作品を読み続けているので、少し気分転換のつもりで手にした本である。雑誌「話の特集」に連載されていた「無名人語録」、雑誌「ライトアップ」に掲載された対談とインタビュー、国立近代美術館の広報誌「現代の眼」に掲載されたインタビューをまとめて加筆したものだそうだ。対談やインタビューも面白いが、本書の題名にもなっている職人と呼ばれる人々の一言には思うところが多い。ここではそのなかから選びぬいたものを紹介させて頂く。
「職業に貴賎はないと思うけど、生き方には貴賎がありますねェ」
「何かに感動するってことは、知らないことを初めて知って感動するってもんじゃございませんねェ。どこかで自分も知ってたり考えていたことと、思わぬところで出くわすと、ドキンとするんでさァね」
「他人と比較してはいけません。その人が持っている能力と、その人がやったことを比較しなきゃいけません。そうすれば褒めることができます」
「田舎の人は木に詳しいから伐り倒す。都会の人は木を知らないけど守りたがる」
「褒められたい、認められたい、そう思い始めたら、仕事がどこか嘘になります」
「職人気質という言葉はありますが、芸術家気質というのはありません。あるとすれば、芸術家気取りです」
「安いから買うという考え方は、買物じゃありません。必要なものは高くても買うというのが買物です」
以上である。似たような意味と思われるものが複数ある場合はそのなかからひとつだけ選んだ。職人語録以外では、以下を引用させて頂く。
「氷が解けて□になる」という問題がありました。□にどういう字を入れるか。正解はもちろん「水」。ところが、そこに「春」と書いた子がいたんですって。「氷が解けて春になる」とてもいいじゃないですか。でも、それは×なんです。(中略)人生って、答は一つじゃないんです。答が一つであることを要求する○×方式、それがこの国の教育の大部分だと思うと、ぞっとしませんか。(36ページ)
あと、引用はしないが、著者と河井寛次郎との買物に関するやり取りが面白かった。
唐突だが、正月というと、商店などでは福袋が販売される。なかには行列に並んでまで買う人があるのだという。最近は中身がわかるものもあるようだが、一般的には中は買ってからのお楽しみということになっている。その福袋の価格以上の商品が入っていることになっているので、お買い得感があるのと、中に何が入っているのかを想像する楽しみというようなものを味わうために買う人が多いのだろう。いわば遊びである。それを承知で言わせてもらえば、こんな馬鹿馬鹿しい買い物もないだろう。
本当に価格以上のものが入っているとして、販売した商店は、客がその福袋を返品したいと申し出た場合に、その中身の価格分の返金をするだろうか。1,000円で買った福袋に3,000円相当の商品が入っていた。しかし、客はそれが気に入らなかったので返品した。客が受け取るのは1,000円だろうか、3,000円だろうか。福袋ではない一般の商品ならどうだろう。5,000円のシャツを買ったが気に入らなかったので返品した。おそらく、5,000円は戻ってくるだろう。
福袋を買う人が全員そうだというわけではないが、払った以上のものが手に入るというだけで買い物をするという行為というのは、単に卑しいだけなのではないか。買い物という行為は、必要なものや欲しいものがあって、その価値を評価して、その対価を支払って対象物を手に入れる行為だと思う。もし、自分の評価と価格との間に差があれば、そこで値切るなり購入を断念するなりするのであって、端から値切るというのは野卑でしかない。ましてや、何がはいっているかわからない福袋を「得だから」というだけで買うというのは卑しさの極みだろう。
尤も、市場原理というのはそういう卑しさを前提にした仕組みである。良いものだと思うからそれを欲するというのではなく、需要は価格の関数として表現される。世の中が市場原理によって動くとなると、需要は価格に左右され、その需要に応えるべくコストの低い地域へと生産拠点が移動する。その結果、需要を満足させる品質や価格を実現できない企業や労働者は職を失うという形で市場から排除される。市場から排除されると所得を失うから、経済全体としてみれば、平均的な購買力には下方圧力がかかり、需要は一層価格の影響を受け易くなる、ということだろう。デフレも不況も、突き詰めれば経済主体の卑しさの帰結と言えないこともあるまい。
価格だとか、ブランドだとか、物事の上っ面だけしか眼に入らず、○×方式でしか物事を捉えることのできない奴が増えたから、景気がよくならない、と言ってしまえば単なる頑固爺なのだが、その通りなのだからしょうがない。職人と呼ばれる人たちが皆、誠実で筋の通った人だとは思わないが、誠実に自分の作るものの使い手のことを考えるという意味での職人気質的価値観が失われつつあることが、この国の国力の衰退そのものだと思うのである。自分のことではなく客のこと、つまり、他人や社会のことを第一に考える人たちが作り上げる社会は、多様な考え方への寛容さがあり、暮らしやすいのではないだろうか。自分のことしか考えない、考えるどころか本能のおもむくままにしか生きることのできない人たちが作り上げる社会は、単一の価値観にしばられて窮屈なのではないだろうか。
「職業に貴賎はないと思うけど、生き方には貴賎がありますねェ」
「何かに感動するってことは、知らないことを初めて知って感動するってもんじゃございませんねェ。どこかで自分も知ってたり考えていたことと、思わぬところで出くわすと、ドキンとするんでさァね」
「他人と比較してはいけません。その人が持っている能力と、その人がやったことを比較しなきゃいけません。そうすれば褒めることができます」
「田舎の人は木に詳しいから伐り倒す。都会の人は木を知らないけど守りたがる」
「褒められたい、認められたい、そう思い始めたら、仕事がどこか嘘になります」
「職人気質という言葉はありますが、芸術家気質というのはありません。あるとすれば、芸術家気取りです」
「安いから買うという考え方は、買物じゃありません。必要なものは高くても買うというのが買物です」
以上である。似たような意味と思われるものが複数ある場合はそのなかからひとつだけ選んだ。職人語録以外では、以下を引用させて頂く。
「氷が解けて□になる」という問題がありました。□にどういう字を入れるか。正解はもちろん「水」。ところが、そこに「春」と書いた子がいたんですって。「氷が解けて春になる」とてもいいじゃないですか。でも、それは×なんです。(中略)人生って、答は一つじゃないんです。答が一つであることを要求する○×方式、それがこの国の教育の大部分だと思うと、ぞっとしませんか。(36ページ)
あと、引用はしないが、著者と河井寛次郎との買物に関するやり取りが面白かった。
唐突だが、正月というと、商店などでは福袋が販売される。なかには行列に並んでまで買う人があるのだという。最近は中身がわかるものもあるようだが、一般的には中は買ってからのお楽しみということになっている。その福袋の価格以上の商品が入っていることになっているので、お買い得感があるのと、中に何が入っているのかを想像する楽しみというようなものを味わうために買う人が多いのだろう。いわば遊びである。それを承知で言わせてもらえば、こんな馬鹿馬鹿しい買い物もないだろう。
本当に価格以上のものが入っているとして、販売した商店は、客がその福袋を返品したいと申し出た場合に、その中身の価格分の返金をするだろうか。1,000円で買った福袋に3,000円相当の商品が入っていた。しかし、客はそれが気に入らなかったので返品した。客が受け取るのは1,000円だろうか、3,000円だろうか。福袋ではない一般の商品ならどうだろう。5,000円のシャツを買ったが気に入らなかったので返品した。おそらく、5,000円は戻ってくるだろう。
福袋を買う人が全員そうだというわけではないが、払った以上のものが手に入るというだけで買い物をするという行為というのは、単に卑しいだけなのではないか。買い物という行為は、必要なものや欲しいものがあって、その価値を評価して、その対価を支払って対象物を手に入れる行為だと思う。もし、自分の評価と価格との間に差があれば、そこで値切るなり購入を断念するなりするのであって、端から値切るというのは野卑でしかない。ましてや、何がはいっているかわからない福袋を「得だから」というだけで買うというのは卑しさの極みだろう。
尤も、市場原理というのはそういう卑しさを前提にした仕組みである。良いものだと思うからそれを欲するというのではなく、需要は価格の関数として表現される。世の中が市場原理によって動くとなると、需要は価格に左右され、その需要に応えるべくコストの低い地域へと生産拠点が移動する。その結果、需要を満足させる品質や価格を実現できない企業や労働者は職を失うという形で市場から排除される。市場から排除されると所得を失うから、経済全体としてみれば、平均的な購買力には下方圧力がかかり、需要は一層価格の影響を受け易くなる、ということだろう。デフレも不況も、突き詰めれば経済主体の卑しさの帰結と言えないこともあるまい。
価格だとか、ブランドだとか、物事の上っ面だけしか眼に入らず、○×方式でしか物事を捉えることのできない奴が増えたから、景気がよくならない、と言ってしまえば単なる頑固爺なのだが、その通りなのだからしょうがない。職人と呼ばれる人たちが皆、誠実で筋の通った人だとは思わないが、誠実に自分の作るものの使い手のことを考えるという意味での職人気質的価値観が失われつつあることが、この国の国力の衰退そのものだと思うのである。自分のことではなく客のこと、つまり、他人や社会のことを第一に考える人たちが作り上げる社会は、多様な考え方への寛容さがあり、暮らしやすいのではないだろうか。自分のことしか考えない、考えるどころか本能のおもむくままにしか生きることのできない人たちが作り上げる社会は、単一の価値観にしばられて窮屈なのではないだろうか。