ブリヂストン美術館で開催中の「安井曾太郎の肖像画」を観てきた。肖像画とか肖像写真というのは、見る側と見られる側との間の緊張関係の表現だと思う。自画像であっても、見る自分と見られる自分とは同じではないだろう。
画家に肖像画を描いてもらうには、一般的には金銭の支払いを伴う注文をするのだろう。この点で画家と描かれる人物とは、受注者と発注者の関係だ。おそらく、この関係のままだと、出来上がった肖像画はただの肖像画でしかないのだろう。人の手によって描かれているとはいえ、ほぼ純然たる無機物と言ってよい。画家とモデルとの間に何かしら通じ合うものが出来上がったとき、その肖像画には技巧や構図といった技術的なことを超えた何かが描き込まれるように思う。
「目は口ほどにものを言う」とか「目は心の鏡」というような言葉もあるが、表情とか佇まいというのは対峙する相手によって変わるものである。肖像画が面白いのは、そこにモデルと画家との関係とか、画家の目から見たモデルの印象が描かれるのであって、モデルその人が描かれるわけではないということだ。
今日観た「安井曾太郎の肖像画」で、作品に付されている説明を読んでみると、肖像画の発注は安井のそれまでの仕事を見て彼に依頼することにしたのであって発注以前には何の関係もなかった人が、肖像画を描いてもらうことをきっかけに安井と親しく交際するようになった、というようなこともあったようだ。画を描くとなると、それ相応の時間もかかり、しかも、同じ空間を共有しているわけだから、程度の差こそあれ、画家とモデルとの心理的な距離といったものも自ずと近くなるのかもしれない。尤も、相手によっては物理的に近くにあることによって、それだけ嫌悪感が増すということもあるのだろうから、一概に物理的距離と心理的距離が相関するわけではないとは思う。それでも、画家は仕事として肖像画の制作を請け負えば、相手が好きの嫌いのとは言っていられないはずだ。ただ、作品の出来映えに、そうした描き手の心情は反映されるものである。
これが肖像写真となると、写真家とモデルの関係はある瞬間の場面に凝縮されることになるから、初めて会った相手を撮るのと旧知の相手を撮るのとでは、まったく違ったものになるはずだ。手許に「ポートレイト 内なる静寂」という写真集がある。撮影しているのはアンリ・カルティエ=ブレッソン。被写体は彼の友人知人もあれば、街角の風景のような人もいる。相手がポーズをとっているような、いないような、微妙な雰囲気の写真が多い。この微妙さというのは、被写体がカメラを見ていない所為であるように思う。カメラマンがカメラを構えて自分の前に立っていれば、そのカメラやカメラマンの存在を意識するのが当然だろう。身体の姿勢とか佇まいとしては、そうした意識が感じられるのだが、何故か目線はカメラから外れている。ふとした一瞬を捉えたということなのだろう。人の集中力というのはそう長くは続かないという。カメラを前に身構えた緊張が、カメラマンを前にしていても、弛緩する一瞬があり、その一瞬を捉えたということなのだろう。とすれば、被写体は弛緩してその人の地とも呼べるような雰囲気を瞬間的に見せていて、それを見逃すまいと緊張の極にあるカメラマンがシャッターを切ったということだ。カメラをはさんで緊張と弛緩とが一体化した瞬間が一葉の写真に表現されている。
肖像画や肖像写真にはモデルしかいない。しかし、見えているものだけでなく、その対象を見つめていたであろう目の持ち主のことや、画家、写真家とモデルとの関係といった画の背後にあるはずのものにまで思いを巡らすと、肖像というのは想像する楽しみの恰好のネタである。
画家に肖像画を描いてもらうには、一般的には金銭の支払いを伴う注文をするのだろう。この点で画家と描かれる人物とは、受注者と発注者の関係だ。おそらく、この関係のままだと、出来上がった肖像画はただの肖像画でしかないのだろう。人の手によって描かれているとはいえ、ほぼ純然たる無機物と言ってよい。画家とモデルとの間に何かしら通じ合うものが出来上がったとき、その肖像画には技巧や構図といった技術的なことを超えた何かが描き込まれるように思う。
「目は口ほどにものを言う」とか「目は心の鏡」というような言葉もあるが、表情とか佇まいというのは対峙する相手によって変わるものである。肖像画が面白いのは、そこにモデルと画家との関係とか、画家の目から見たモデルの印象が描かれるのであって、モデルその人が描かれるわけではないということだ。
今日観た「安井曾太郎の肖像画」で、作品に付されている説明を読んでみると、肖像画の発注は安井のそれまでの仕事を見て彼に依頼することにしたのであって発注以前には何の関係もなかった人が、肖像画を描いてもらうことをきっかけに安井と親しく交際するようになった、というようなこともあったようだ。画を描くとなると、それ相応の時間もかかり、しかも、同じ空間を共有しているわけだから、程度の差こそあれ、画家とモデルとの心理的な距離といったものも自ずと近くなるのかもしれない。尤も、相手によっては物理的に近くにあることによって、それだけ嫌悪感が増すということもあるのだろうから、一概に物理的距離と心理的距離が相関するわけではないとは思う。それでも、画家は仕事として肖像画の制作を請け負えば、相手が好きの嫌いのとは言っていられないはずだ。ただ、作品の出来映えに、そうした描き手の心情は反映されるものである。
これが肖像写真となると、写真家とモデルの関係はある瞬間の場面に凝縮されることになるから、初めて会った相手を撮るのと旧知の相手を撮るのとでは、まったく違ったものになるはずだ。手許に「ポートレイト 内なる静寂」という写真集がある。撮影しているのはアンリ・カルティエ=ブレッソン。被写体は彼の友人知人もあれば、街角の風景のような人もいる。相手がポーズをとっているような、いないような、微妙な雰囲気の写真が多い。この微妙さというのは、被写体がカメラを見ていない所為であるように思う。カメラマンがカメラを構えて自分の前に立っていれば、そのカメラやカメラマンの存在を意識するのが当然だろう。身体の姿勢とか佇まいとしては、そうした意識が感じられるのだが、何故か目線はカメラから外れている。ふとした一瞬を捉えたということなのだろう。人の集中力というのはそう長くは続かないという。カメラを前に身構えた緊張が、カメラマンを前にしていても、弛緩する一瞬があり、その一瞬を捉えたということなのだろう。とすれば、被写体は弛緩してその人の地とも呼べるような雰囲気を瞬間的に見せていて、それを見逃すまいと緊張の極にあるカメラマンがシャッターを切ったということだ。カメラをはさんで緊張と弛緩とが一体化した瞬間が一葉の写真に表現されている。
肖像画や肖像写真にはモデルしかいない。しかし、見えているものだけでなく、その対象を見つめていたであろう目の持ち主のことや、画家、写真家とモデルとの関係といった画の背後にあるはずのものにまで思いを巡らすと、肖像というのは想像する楽しみの恰好のネタである。