昨日、このブログは開設1,359日目にして初めて、アクセスランキングで1万位以内に入った。gooブログではアクセスランキングが1万位以内に入ると順位が編集画面に表示されるのである。それによると昨日一日のPVが698、訪問IP数177で1,349,030ブログ中7,539位だった。1訪問IPあたり3.9PVなので、一日に何度も読んでいただいた方も少なくないようだ。この場を借りてお礼を申し上げる。
昨日はたまたま検索に掛かりやすい言葉がいくつか入っていたからアクセスが多かったのだろう。普段は頻繁に更新している時でも、一日の訪問IP数は30前後でPVはその倍程度でしかない。勝手な想像だが、このうち10IPほどが自分の知己で、残りはたまたま訪れた方ではないかと思っている。公開しているが、基本的には自分の知り合いに向けて書いている私的なものである。だから、広告も貼らないし、コメントやトラックバックも承認制にしてある。おかげで、たまに数ヶ月ぶりとか数年ぶりとかで友人や知り合いと会うときには話題の取っ掛かりになるので重宝している。
自分でブログを書いていながら、他人のブログを読むことは滅多に無い。だから、自分の知り合い以外の人が、どのような動機とどのような経路でこのブログに辿り着くのか見当がつかない。ただ、自分の見ず知らずの人がこのブログを読むことは意識をしているので言葉には気を遣っているつもりである。
たまたま「芸術新潮」の1月号が「わたしが選ぶ日本遺産」という特集で各界の68人の方々がそれぞれ勝手に「日本遺産」という言葉からイメージするものを推している。そのなかで、当然に日本語というものが出てくる。雑誌側の意図としては「誰もが認めるような最大公約数的な「世界遺産の日本版」とは一線を画すもの」を集めたかったそうだが、それでも日本語は挙がるだろう。書家の石川九楊、作編曲家の小西康陽、落語家の立川志らく、歌舞伎の中村吉右衛門、フランス文学者の鹿島茂、作家の片岡義男、そのほか多くの人が日本語あるいはその周辺のものを挙げている。特に共感したのは小西と中村が語る言葉の「消化」ということだ。日本語にはひらがな、カタカナ、漢字という三種類の文字がある。これらを適切に組み合わせることによって、思考をしたり意思疎通を図ったりするので、例えば同じ対象物であってもそれをどの文字を使って表記するかによって意味が変わってくる。特に気をつけたいのは外来語の扱いである。外来語や外国語を生のままとりあえず表記するのはカタカナだ。これがカタカナ文字のまま日本語のなかに溶け込むことも多いが、そのままではなんのことかわからないことも少なくない。日本語の世界のなかに消化して、カタカナではなく漢字やひらがなになってこそ、言葉としての命を得るのではないだろうか。
このブログに限らず、私はなるべくカタカナ文字を使わないように心がけている。それは、上記のような考えで、そういう生もの言葉は自分のなかで理解されていないことのように感じられて気持ちが悪いからだ。他人の言葉の受け売りや、わかっていないことをうやむやなまま表現するのは醜い。なかには新聞の見出しを並べただけのような薄っぺらな話を上から目線でぬけぬけと語る人もいる。やたらとカタカナ文字が会話に交じる人も少なくない。本人は時事用語や外来語を口にすることで一端の教養人を気取っているつもりなのかもしれないが、馬鹿丸出しとはこのことだ。どんなに突飛であったり、世間の一般的論調から外れていようとも、自分の頭で悩み考えたことはとりあえず相手には届くと思っている。それに相手が同意するか否かは二の次でよい。届かなければ会話にならないのだから。悩み考える過程で、カタカナ文字や馴染みのない言葉は、必然的に自分のなかで咀嚼されている言葉に置き換えられる。それが一見したところ稚拙であっても、異質の言葉を丸のまま投げかけるよりは、少なくとも自分で思考した跡があるだけでも語る価値があるというものだ。私は自分の言葉にこだわり続けたい。そうすれば、いつの日か、似たような相手が現れて楽しく付き合うことができるのではないかと期待している。
昨日はたまたま検索に掛かりやすい言葉がいくつか入っていたからアクセスが多かったのだろう。普段は頻繁に更新している時でも、一日の訪問IP数は30前後でPVはその倍程度でしかない。勝手な想像だが、このうち10IPほどが自分の知己で、残りはたまたま訪れた方ではないかと思っている。公開しているが、基本的には自分の知り合いに向けて書いている私的なものである。だから、広告も貼らないし、コメントやトラックバックも承認制にしてある。おかげで、たまに数ヶ月ぶりとか数年ぶりとかで友人や知り合いと会うときには話題の取っ掛かりになるので重宝している。
自分でブログを書いていながら、他人のブログを読むことは滅多に無い。だから、自分の知り合い以外の人が、どのような動機とどのような経路でこのブログに辿り着くのか見当がつかない。ただ、自分の見ず知らずの人がこのブログを読むことは意識をしているので言葉には気を遣っているつもりである。
たまたま「芸術新潮」の1月号が「わたしが選ぶ日本遺産」という特集で各界の68人の方々がそれぞれ勝手に「日本遺産」という言葉からイメージするものを推している。そのなかで、当然に日本語というものが出てくる。雑誌側の意図としては「誰もが認めるような最大公約数的な「世界遺産の日本版」とは一線を画すもの」を集めたかったそうだが、それでも日本語は挙がるだろう。書家の石川九楊、作編曲家の小西康陽、落語家の立川志らく、歌舞伎の中村吉右衛門、フランス文学者の鹿島茂、作家の片岡義男、そのほか多くの人が日本語あるいはその周辺のものを挙げている。特に共感したのは小西と中村が語る言葉の「消化」ということだ。日本語にはひらがな、カタカナ、漢字という三種類の文字がある。これらを適切に組み合わせることによって、思考をしたり意思疎通を図ったりするので、例えば同じ対象物であってもそれをどの文字を使って表記するかによって意味が変わってくる。特に気をつけたいのは外来語の扱いである。外来語や外国語を生のままとりあえず表記するのはカタカナだ。これがカタカナ文字のまま日本語のなかに溶け込むことも多いが、そのままではなんのことかわからないことも少なくない。日本語の世界のなかに消化して、カタカナではなく漢字やひらがなになってこそ、言葉としての命を得るのではないだろうか。
このブログに限らず、私はなるべくカタカナ文字を使わないように心がけている。それは、上記のような考えで、そういう生もの言葉は自分のなかで理解されていないことのように感じられて気持ちが悪いからだ。他人の言葉の受け売りや、わかっていないことをうやむやなまま表現するのは醜い。なかには新聞の見出しを並べただけのような薄っぺらな話を上から目線でぬけぬけと語る人もいる。やたらとカタカナ文字が会話に交じる人も少なくない。本人は時事用語や外来語を口にすることで一端の教養人を気取っているつもりなのかもしれないが、馬鹿丸出しとはこのことだ。どんなに突飛であったり、世間の一般的論調から外れていようとも、自分の頭で悩み考えたことはとりあえず相手には届くと思っている。それに相手が同意するか否かは二の次でよい。届かなければ会話にならないのだから。悩み考える過程で、カタカナ文字や馴染みのない言葉は、必然的に自分のなかで咀嚼されている言葉に置き換えられる。それが一見したところ稚拙であっても、異質の言葉を丸のまま投げかけるよりは、少なくとも自分で思考した跡があるだけでも語る価値があるというものだ。私は自分の言葉にこだわり続けたい。そうすれば、いつの日か、似たような相手が現れて楽しく付き合うことができるのではないかと期待している。