子供が通う学校では国語の授業で芥川龍之介の「地獄変」を取り上げるのだそうだ。それで、その感想をメールに書いてよこしてきた。これに何か応えるべく、私も早速書店に出かけて新潮文庫の「地獄変・偸盗」を買ってきて読んだ。表題作を含め6編の短編が収められているが、全体でも200ページにも満たないので一気に読了した。
さて、「地獄変」だが、子供がこのように書いてきた。
「話は変わりますが今学期は国語の授業で芥川の『地獄変』をやります。主な登場人物の作品中の描かれ方を見ていくと大殿(地獄変の絵の発注者)→一見「善人」、良秀(地獄変を描いた絵師)→「悪人」、良秀の娘(大殿に使えている)→完全な「善人」、となっています。語り手は大殿の配下の者なのでしきりに大殿をほめ、良い逸話を数多くあげ、善人としてあつかっていますが、言葉の端々から本当はそう思っていない事が伺えます。良秀に関して語り手は「絵」意外の事は、悪評や悪い逸話を数多くあげ、これでもか、という程けなしています。登場人物のなかには娘によくなついている良秀という猿が居ます。その猿は娘の危機の時に人を呼びにいったり、娘が牛車ごと焼かれた時に燃え盛る牛車の中に飛び込んでいって娘に寄り添ったりしています。私はこの猿が良秀の「善」の部分なのではないかと思うのです。一人の人物の悪しき部分と善き部分が別の者として舞台に現れているというのはお父さんが述べていた「能」の話とかぶるように思えます。」
「お父さんが述べていた「能」の話」というのは、昨年12月29日付のこのブログに書いた「ずっとあなたを愛してる」という映画について私が書いたことを指している。あのままではないが、ほぼ同内容のことをメールに書いて送ったのである。
おそらく、まだざっと読んだだけなのだろう。理解の仕方が少し粗末な感じを否めない。物事に無造作にレッテルを貼って安易に仕分けをしてしまうという習慣はつけないほうがいいように思う。まして善悪というのは尺度の当て方によってどうにでも変わるものである。同じ人間の同じ行為が置かれた状況によって、それを評価する者の立場によって「善」にも「悪」にもなる。自分が実際に行動をするときには、その瞬間おいてあらゆる可能性のなかからひとつだけを選び出すという決断を無意識のうちに連続させている。時間が止まらないのだから否応なく決め打ちをし続けざるを得ない。だから、せめて思考する余地のある時くらいは、その時間を十二分に使って様々な可能性を模索するということを意識的に行わなければ、人間が浅薄になる一方になってしまう。
さて、ここではいかにも長者風であった大殿が残虐性を露わにするに至ることになった背景を考えてみたい。堀川の大殿は生まれながらの権力者だ。その余裕が寛容さという形で表われるのだろうが、その大前提である権力が否定されると、その上に成り立っていた寛容の精神が崩壊し、改めて権力を確認する欲求に支配されるということなのだろう。権力の大きさはどこまで無法な行為が周囲から許容されるかということで計られる。この物語では、大殿が残虐行為に走り、その暴走がまかり通ることを確認したかったということだろう。
その権力の否定というのは、他愛の無いことなのだろう。大殿が良秀の娘を求め、当然にそれが受け入れられると思っていたのが、そうはならなかったというだけのことだ。相手が人間なのだから、そんなことがあるのは当然だろうと思うのは、今の時代に生きる我々の常識である。厳しい階級社会のなかの上層に生きる人にとっては、使用人が意のままにならぬというのは天地を揺るがすほどの一大事に感じられたかもしれない。肉欲の満足というのは生物としての本能と深く結びついているので、その欲求がかなえられないというのは尚更に自己の存在に関わる危機であったのだろう。その危機の大きさが残虐性の強さと比例しているのではないだろうか。
一方、絵師の良秀は、最愛の娘が虐殺される姿を自ら積極的に写生することで、自己の存在を確認するのである。誰よりも優れた絵を描くことによってしか自己を保持することができない人間が、自己の分身とも言える娘の苦しみ悶えながら死ぬ姿に恍惚とする。それは自己の存在を賭けて自己を破壊する姿でもある。矛盾あるいは逆説のようにも見えるが、生命の向かうところが己の死であることを思えば、絵師という自己表現を生業とする良秀にとっては、自己あるいは自己を象徴するものを派手に破壊する様を描くことは、その破壊のしかたが劇的であればあるほど自己の存在の大きさを表現することになるのだ。
地獄変というのは地獄を描いた絵のことのようだが、実は、その絵は人の欲そのもの、つまりは人の存在自体が地獄だというのである。
さて、「地獄変」だが、子供がこのように書いてきた。
「話は変わりますが今学期は国語の授業で芥川の『地獄変』をやります。主な登場人物の作品中の描かれ方を見ていくと大殿(地獄変の絵の発注者)→一見「善人」、良秀(地獄変を描いた絵師)→「悪人」、良秀の娘(大殿に使えている)→完全な「善人」、となっています。語り手は大殿の配下の者なのでしきりに大殿をほめ、良い逸話を数多くあげ、善人としてあつかっていますが、言葉の端々から本当はそう思っていない事が伺えます。良秀に関して語り手は「絵」意外の事は、悪評や悪い逸話を数多くあげ、これでもか、という程けなしています。登場人物のなかには娘によくなついている良秀という猿が居ます。その猿は娘の危機の時に人を呼びにいったり、娘が牛車ごと焼かれた時に燃え盛る牛車の中に飛び込んでいって娘に寄り添ったりしています。私はこの猿が良秀の「善」の部分なのではないかと思うのです。一人の人物の悪しき部分と善き部分が別の者として舞台に現れているというのはお父さんが述べていた「能」の話とかぶるように思えます。」
「お父さんが述べていた「能」の話」というのは、昨年12月29日付のこのブログに書いた「ずっとあなたを愛してる」という映画について私が書いたことを指している。あのままではないが、ほぼ同内容のことをメールに書いて送ったのである。
おそらく、まだざっと読んだだけなのだろう。理解の仕方が少し粗末な感じを否めない。物事に無造作にレッテルを貼って安易に仕分けをしてしまうという習慣はつけないほうがいいように思う。まして善悪というのは尺度の当て方によってどうにでも変わるものである。同じ人間の同じ行為が置かれた状況によって、それを評価する者の立場によって「善」にも「悪」にもなる。自分が実際に行動をするときには、その瞬間おいてあらゆる可能性のなかからひとつだけを選び出すという決断を無意識のうちに連続させている。時間が止まらないのだから否応なく決め打ちをし続けざるを得ない。だから、せめて思考する余地のある時くらいは、その時間を十二分に使って様々な可能性を模索するということを意識的に行わなければ、人間が浅薄になる一方になってしまう。
さて、ここではいかにも長者風であった大殿が残虐性を露わにするに至ることになった背景を考えてみたい。堀川の大殿は生まれながらの権力者だ。その余裕が寛容さという形で表われるのだろうが、その大前提である権力が否定されると、その上に成り立っていた寛容の精神が崩壊し、改めて権力を確認する欲求に支配されるということなのだろう。権力の大きさはどこまで無法な行為が周囲から許容されるかということで計られる。この物語では、大殿が残虐行為に走り、その暴走がまかり通ることを確認したかったということだろう。
その権力の否定というのは、他愛の無いことなのだろう。大殿が良秀の娘を求め、当然にそれが受け入れられると思っていたのが、そうはならなかったというだけのことだ。相手が人間なのだから、そんなことがあるのは当然だろうと思うのは、今の時代に生きる我々の常識である。厳しい階級社会のなかの上層に生きる人にとっては、使用人が意のままにならぬというのは天地を揺るがすほどの一大事に感じられたかもしれない。肉欲の満足というのは生物としての本能と深く結びついているので、その欲求がかなえられないというのは尚更に自己の存在に関わる危機であったのだろう。その危機の大きさが残虐性の強さと比例しているのではないだろうか。
一方、絵師の良秀は、最愛の娘が虐殺される姿を自ら積極的に写生することで、自己の存在を確認するのである。誰よりも優れた絵を描くことによってしか自己を保持することができない人間が、自己の分身とも言える娘の苦しみ悶えながら死ぬ姿に恍惚とする。それは自己の存在を賭けて自己を破壊する姿でもある。矛盾あるいは逆説のようにも見えるが、生命の向かうところが己の死であることを思えば、絵師という自己表現を生業とする良秀にとっては、自己あるいは自己を象徴するものを派手に破壊する様を描くことは、その破壊のしかたが劇的であればあるほど自己の存在の大きさを表現することになるのだ。
地獄変というのは地獄を描いた絵のことのようだが、実は、その絵は人の欲そのもの、つまりは人の存在自体が地獄だというのである。