マイケル・ムーアの作品を観るのはこれが初めてだ。ドキュメンタリーなのだがコラージュのような作りになっていて、上手いと思う。演出としては突撃インタビューのようなことをしているが、幸か不幸か彼がかなり有名になってしまっていることが取材相手を身構えさせることになっていたり、取材そのものを不可能にしている面が出始めているようだ。同じ手法での作品制作はそろそろ限界のような気もする。
何事にもismという枠を与えてステレオタイプ化することは、理解を容易にするという効果もあるが、現実の特定部分だけを切り出してそれがあたかもすべてであるかのように見せてしまったり、単純な二項対立の図式に落とし込んで事態を浅薄にしてしまうという短所もある。この作品に限らず、アメリカの映像作品には多分にそうしたモデル化が背景思想としてあるように感じられる。
「キャピタリズム」というとなにやら主義主張とか原理的なことのように聞こえるが、要するにカネは権力のバロメーターであり、既得権者はその既得権を守るべく権力を行使するので、そこにカネがますます集まり、カネが集まれば権力がさらに強化され、という持つ者と持たざる者との格差拡大の構造を表現しているのだと思う。個人の能力に個性があるのだから、誰もが同じように裕福になったり貧乏になったりするのが不自然で、人によって差があるのが当然だ。
何も特別なことをしなくても、10,000円を年利1%の預金に入れれば1年後に10,100円になり、100,000,000円なら101,000,000円になる。同じ条件でも元が違えば、片方は100円の収益でもう片方は100万円の収益になる。これを不公平とは誰も言うまい。100円をこつこつ積み上げて大きな金額にするのは容易なことではないが、100万円を積み上げれば容易により大きな単位の金額に膨れ上がる。その元が不正に手に入れたものだというなら話は別だが、自分の才覚と努力で得た元ならば、持てる者が益々富み、持たざる者が貧困に放置されることに何の不思議もないだろう。これを否定するということは、個人の個性や努力を否定することにもなる。
人はどのような環境下に生まれるかを選択できないし、生まれることそのものをも選択できない。同じ才覚や努力があっても、持てる家庭に生まれるのとそうでないのとでは、その先の人生が全く違ったものになる。果たしてこれは是正すべきことなのか?
人に我があり欲があり、それを具体的な尺度で明示しようとするのは当然のことだ。好むと好まざるとにかかわらず、我々は市場原理のなかに生きている。本来的に数値化できないことまでも数量化するのが市場原理というものだ。幸福であるとかないとか、人を信じるとか信じないとか、身体を売るとか売らないとか、どのようなこともデジタル表示によって一目瞭然とするのが市場の世界なのである。数字で表現されると、その数字が独り歩きをして数値変換の過程は問われることがあまりないのも不思議なことなのだが現実なのである。人はわかりやすさを求めるものだ。
そうしたあらゆるものを数値化したものが行き交うのが現実の世の中だ。市場経済が嫌いだろうが資本主義に違和感を覚えようが、そこで生きているのだから仕方がない。反対するなら対案を提示し、それを実現すべく行動すればよい。社会を変えるのは困難が大きいが、自分を変えるのは社会を変えるほどには困難ではないだろう。昨日のブログで言及したAERAの最新号は本作の監督、マイケル・ムーアが表紙を飾っていて、そのインタビューの要約が載っている。彼曰く「人が自分をどう思うか、気にしないようにしている。自分を信じるんだ」。信じる自分がある人は幸せだ。信じるべき自分が無い人が多いのではないか。自分がなければ、それを変えることすらできない。右往左往するしかない。
何事にもismという枠を与えてステレオタイプ化することは、理解を容易にするという効果もあるが、現実の特定部分だけを切り出してそれがあたかもすべてであるかのように見せてしまったり、単純な二項対立の図式に落とし込んで事態を浅薄にしてしまうという短所もある。この作品に限らず、アメリカの映像作品には多分にそうしたモデル化が背景思想としてあるように感じられる。
「キャピタリズム」というとなにやら主義主張とか原理的なことのように聞こえるが、要するにカネは権力のバロメーターであり、既得権者はその既得権を守るべく権力を行使するので、そこにカネがますます集まり、カネが集まれば権力がさらに強化され、という持つ者と持たざる者との格差拡大の構造を表現しているのだと思う。個人の能力に個性があるのだから、誰もが同じように裕福になったり貧乏になったりするのが不自然で、人によって差があるのが当然だ。
何も特別なことをしなくても、10,000円を年利1%の預金に入れれば1年後に10,100円になり、100,000,000円なら101,000,000円になる。同じ条件でも元が違えば、片方は100円の収益でもう片方は100万円の収益になる。これを不公平とは誰も言うまい。100円をこつこつ積み上げて大きな金額にするのは容易なことではないが、100万円を積み上げれば容易により大きな単位の金額に膨れ上がる。その元が不正に手に入れたものだというなら話は別だが、自分の才覚と努力で得た元ならば、持てる者が益々富み、持たざる者が貧困に放置されることに何の不思議もないだろう。これを否定するということは、個人の個性や努力を否定することにもなる。
人はどのような環境下に生まれるかを選択できないし、生まれることそのものをも選択できない。同じ才覚や努力があっても、持てる家庭に生まれるのとそうでないのとでは、その先の人生が全く違ったものになる。果たしてこれは是正すべきことなのか?
人に我があり欲があり、それを具体的な尺度で明示しようとするのは当然のことだ。好むと好まざるとにかかわらず、我々は市場原理のなかに生きている。本来的に数値化できないことまでも数量化するのが市場原理というものだ。幸福であるとかないとか、人を信じるとか信じないとか、身体を売るとか売らないとか、どのようなこともデジタル表示によって一目瞭然とするのが市場の世界なのである。数字で表現されると、その数字が独り歩きをして数値変換の過程は問われることがあまりないのも不思議なことなのだが現実なのである。人はわかりやすさを求めるものだ。
そうしたあらゆるものを数値化したものが行き交うのが現実の世の中だ。市場経済が嫌いだろうが資本主義に違和感を覚えようが、そこで生きているのだから仕方がない。反対するなら対案を提示し、それを実現すべく行動すればよい。社会を変えるのは困難が大きいが、自分を変えるのは社会を変えるほどには困難ではないだろう。昨日のブログで言及したAERAの最新号は本作の監督、マイケル・ムーアが表紙を飾っていて、そのインタビューの要約が載っている。彼曰く「人が自分をどう思うか、気にしないようにしている。自分を信じるんだ」。信じる自分がある人は幸せだ。信じるべき自分が無い人が多いのではないか。自分がなければ、それを変えることすらできない。右往左往するしかない。