熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「幸せ」にすがらない

2010年01月08日 | Weblog
今日発売のAERAに標記の記事があるのだが、そこに取り上げられた5人のひとりとして登場させていただいた。細かいところでは事実誤認もあるが、概ね取材に答えた内容に沿うものだ。他の4人の方々に関する記述と併せ読むと、特集の意図するところが自ずと見えてくる。それが職業とはいえ、上手くまとめるものだと感心した。

取材は12月24日に1時間ほどかけて行われた。場所は丸の内ホテルのル・コネスール。話題は「幸せ考」とでも呼べるようなものだが、現在の考えに至る自分史のような話になった。話をしながら自分を再発見するようなところもあり、改めて会話というのは豊かな行為だと感じた。

写真撮影は取材とは別に12月28日に自宅で行われた。1時間近くかけて数え切れないほどのシャッターが切られた。どの写真を使うのか素朴に疑問を抱いていたが、雑誌に掲載されていた写真を見て妙に納得した。

この記事には幸せについてのアンケートの結果分析も載っているが、面白いと思ったのは食についてのことだ。幸せと答えた人ほど食へのこだわりが強い傾向があるというのである。これは当然だと思う。取材にも答えたが、幸せというのははっきりとした形があるわけではなく、自分の今いる場所でそれを感じることができるかどうかというものだと思っている。要するに感性の問題ということだ。衣食住という生活の基本的な部分の在り様というのは、その人の感性が端的に現れるところだと思う。やろうと思えばできないことはないが、さすがに衣服や住居というのは既製のものに依存するのが現実的だろう。しかし、食というのはこれら3要素のなかで唯一自分で手をかける余地の大きなものである。料理というのは、材料を揃え、下ごしらえをして、調理をして、食べて、片付けるという一連の作業である。何を作るかというところから始まって、材料の揃え方、選ぶ基準、調理の段取り、調味の程度、食べ方、片付けの要領、などすべての過程にその人の価値観が濃厚に反映される。敢えて独断と偏見で断じてしまえば、料理をしない人、料理が下手な人というのは、思考において病的なまでの浅薄さがあると思っている。自分の食という命に最も近いところに関わることに無頓着でいられるというのは、生きるということを真剣に考えたことがないということだろうし、他人を喜ばせようという意思が薄弱、さらに言えば他人と意思疎通を図ろうとする意欲に乏しいということだろう。きちんとした料理をする人は、他人が料理をしたものに対し自然に敬意を払うことのできる人だと思っている。だから、その人の手料理を食べる機会に恵まれなくとも、一緒に食事をする機会さえあれば、その人の人となりのイメージを描くことができるものである。

アンケートの分析では、年収が1,000万円を超えている層、専業主婦(主夫)の幸福度が過半を超えていた。幸せはカネじゃない、とはいいながら、恒産なければ恒心なし、という現実があるということだろう。専業主婦(主夫)は所得獲得という過酷な現実から距離があるので、自然と心にゆとりがあるということではないだろうか。しかし、所得や婚姻関係というのは、それがあるから幸せということではなく、生きてきた結果であろう。初めから年収1,000万の人などそういるものでもないし、生まれたときから専業主婦(主夫)などということもない。この順番を履き違えて考えを巡らすことが何よりも不幸なことである。