熊本熊的日常

日常生活についての雑記

春は曙

2010年08月01日 | Weblog
何度も書いているが、今暮らしている家には四方に窓があり、周囲に極端な熱源が無いため、真夏でも風が通ってエアコンがなくても平気でいられる。ただ、風の向きは日によって、時間によって、結構頻繁に変化する。西側の窓から風が吹き込む日は特に暑い日であることが多い。そして、今日はほぼ終日、その西側から風が吹き込んでいた。

そんな日に「春は曙」というのも妙なことかもしれないが、たまたま今読んでいる本が古典文学の解釈本のようなもので、その「枕草子」のところで目から鱗が落ちる思いをした。何故、今、古典なのかというと、話は京都を訪れた6月に遡る。それ以前から茶道を習うようになって、短歌をはじめとする日本の古典文学についての知識は日本人として当然に持っていなければならないと感じるようになっていたのだが、そうした思いを強くしたのは、京都を訪れた折にたまたま「冷泉家 王朝の和歌守展」を観たときのことである。さっそく解釈に定評のある角川文庫版の「古今和歌集」を買い求め、読み始めてみたものの、「ホンマにこないなこと知らんとあかんの?」という思いが勝ってなかなか読み進めることができないのである。そして、今も少しずつ読んではいる。そんな状況下で、ある書評に目が留まり、そこで紹介されていた「イケズ花咲く古典文学」に興味を覚えた。まだ読み始めたばかりだが、「枕草子」について書かれているなかで「春は曙」の解説になるほどと思い、古典への興味を新たにした。同書によると「春は曙」の意味するところは以下のようなものだという。

「立春ゆうても、まだ寒いやんか。この時期は男とぬくぬくするんがサイコーやね。それも夜明け間際まで添うててくれる情のある男な。名残り惜しそーに帰ってかはんのを見送ったあと、ふと空を仰いだら、もう東山の端っちょのほうが赤なってきてて、うわ、長いこといてくれはったんやーて気づいて。あーええ晩やったなーて自然に笑けてくる。うふ。春の曙、ス・テ・キ」
(入江敦彦 「イケズ花咲く古典文学」 淡交社 2010年3月14日初版発行 82頁)

なによりもまず、読み手としては当時の習俗を知らなければならない。平安時代は通い婚で、男が女のもとを訪ねるようになっていたのである。しかも、清少納言は才色兼備でかなりモテたという。「枕草子」がなぜ今日に至るまで読み継がれているかと言えば、端的にはそれだけ多くの人の心を掴んだからだろう。なぜ掴んだかといえば、それが書かれた当時のライフスタイルブックとして、今で言うところのカリスマ的な権威を持っていたからではないだろうか。言うまでもなく、平安時代に印刷技術は無いので、今日に残されている当時の文学作品はどれも写本をもとにしている。おそらく現代と比べるべくもないほどに牧歌的な時代ではあっただろうが、それでも本を書き写すというのはたいへんなことだ。よほど面白くない限りは後代に残らないはずである。それが見事に残り、義務教育のなかでも取り上げられているのである。学校で習うようなクソ面白くない解釈のものなら、そもそも学校で習う対象にはなっていなかったはずなのだ。

この「イケズ」の解説の優れているところは、「枕草子」を同時代の「源氏物語」と対比させて、相互の関係にまで踏み込んで考察しているところである。あくまでも著者の空想の域を出ないのだが、彼が語る清少納言と紫式部の関係というのは、少なくとも私にとっては説得力に溢れたものだった。「枕草子」や「源氏物語」の前には「古事記」や「日本書紀」に関する章もあるのだが、これらはさすがに時間が遠すぎて、作者の見解も「まぁ、そういうこともあるかもしれんね」という感じだった。

「枕草子」と「源氏物語」は、学校教育においては、片や随筆、片や小説ということで別々に語られ、相互の関係まで触れられることはない。そもそも中学や高校の国語科の教員のレベルがどれほどのものかということも考えなければなるまい。痴呆になりやすい職業として公務員、学校の先生、運転手などが挙げられることが多いが、それは形式的作業が多いからだろう。与えられたものを規則に従って処理するということが求められるという共通点があるように思うが、これは悩ましいことでもある。国家組織という巨大組織の末端は、やはり機械のように杓子定規に動かなければ、組織全体が崩壊してしまう。先生というのは国の未来を背負う子供たちを教育するのだから、奮起して欲しいところだが、あまり奮起すると自らの首を絞めることになってしまう組織のなかで勤務しているというジレンマを抱えている。

というわけで、この本は読み終わったら子供に譲ることにする。そういえば、最近はアマゾンで本を売っていない。わずかな額だが少しは小遣い稼ぎもしないといけない。昨日アマゾンから届いたメールによれば、マーケットプレイスの配送料が8月24日から250円(現行340円)に引き下げられるのだそうだ。買い手にとっては少し負担が減るので、特に小額の商品に動きが出るかもしれない。

それにしても、パソコンに搭載されている日本語変換ソフトの無教養さはなんとかならないものなのか。毛唐の頭では日本の古典など想定外なのだろうから仕方がないのかもしれないが、ITに関わる日本人はもう少し自分が何者なのか、自分が拠って立つところの日本の文化というもののがどういうものなのか、ということをそれぞれの仕事に反映させて頂きたいものである。